初めは孝介さんがお一人で、寒さの厳しく雪深い2月に入居されました。レイさんは腹膜炎の術後回復に時間がかかり、加えて認知症による鎮静が長引き、なかなか退院できずにいたのです。孝介さんは細身ですらりとした男性で、ツルッとした頭にクリクリしたかわいい目が印象的なおじいちゃんでした。タバコが好きで、入居にあたりそこが一番辛かったようです。一見、取っ付きづらく見えるのですが、話せばぶっきらぼうで言葉は少ないながらも、雑談に付き合ってくれます。

多くの記憶を失い、お腹と胸に残る数々の手術の跡についてすら思い出せません。幸い認知症による混乱はなく、記憶障害はあるものの、周囲の支援があれば支障なく日常生活を送れます。しかし困ったのが帰宅願望で、止めるのが大変でした。そりゃ、そうですよね。だって、孝介さんにしてみれば、自分では大体の身の回りのことができるのに、なんで不自由な共同生活を強いられるのか? なぜ、自分がここに入居しているのかが理解できないわけですから。

何より、タバコを全く吸えないのが一番の苦痛だったようです。孝介さんに遅れて、ひと月後に妻のレイさんが入居されました。療養で眠った状態が長かったせいか自分から行動することはなく、目がとろんとして視線が定まりません。何を聞いても、曖昧な返事を小さい声で返される活気の無い状態です。

ところが、妻が入居されると孝介さんが変わりました。部屋で毎日話しかけられ、甲斐甲斐しく妻の手足を動かしたり、さすったり、自己流でリハビリをされるようになりました。

しかもレイさんの入居が転機となり、孝介さんの帰宅願望がおさまったのです。そして驚いたことに、入居時にはぼんやりとした寝たきりおばあちゃんかと思えたレイさんは、見る見る活気が出て目に力が戻ってきました。訪問リハビリの効果もてき面で歩行器を押してスタスタ歩きまわるまでに回復、加えて元々の人格を取り戻し、とってもおしゃべりになりました。入居当時は認知症の長谷川式テストができないほどだったのに、入居後4ヶ月で17点を取るまでに回復しました(30点満点の21点がボーダーラインです)。特に家計のやりくりを思い出したらしく、銀行をはじめ関係各所に電話をしまくるほどです。