彼女に会いたい
元気な時の春爺さんの夜のお誘いは、そのうち、職員のちょっとしたお楽しみになりました。
夜になると、居室のドアを少し開けてチラッと顔を出します。女性なら誰でもいいわけではなく、好みのワーカーさんだと微笑みながら、おいで、おいでをします。
好みでなければ、しばらくジーッと見つめながら、静かにドアを閉めます。顔を出して、男性ワーカーだと即座にススっとドアを閉めて寝られます。
あぁ、ちゃんと男女は認識しているんだ、そして、出て来る目的は介護が必要なのではなくて、好みの女性に会いたいことだったのですね。それが元気のバロメーターだったのはすぐに気づきました。
食欲が何となく無い日は夜のお誘いもなく、休まれる日が続きます。そして発熱で気づき、肺炎だったり、風邪だったりすることが何度かありました。
春爺さんは強い方なのか、あるいは認知症で苦痛を感じる力が落ちてしまったのか、どんな時でも診察すれば「うん、大丈夫だ」と答えられました。
「本当に大丈夫? 具合悪そうだよ」と問い直しても、かすれた声で「あぁ、大丈夫だ」と答えられるのが常でした。
入居後2年が経った秋の頃、起きてこられない日が続きました。「大丈夫」と答えるものの、明らかに元気がない。そして炎症反応も高くなり、呼吸も弱くなり、止むを得ず救急搬送となりました。
なんと解離性大動脈瘤(大血管が裂ける命にかかわる病気)をすでに起こしておりました。ところが、幸い自然経過で見ることができました。
帰って来てからも、あまり歩かれることもなく、夜のお誘いもなく、弱ったままです。結局はリウマチ性多発筋痛症という高齢者に多い関節炎も合併していたようで、ステロイド治療で元気になっていきました。
この病気はすぐにステロイドに反応するのが特徴で、投与数日後「どう?」と尋ねると「調子いいよ!」とニッカリ、この日は銀歯の笑顔を満面に浮かべてくれました。
こんな感じで4年が経ちました。私はよく診察中に女性の話を振りました。95歳になられた頃です。
「好きな女優さんは?」
「いやぁ、年取ったらすっかり興味なくなっちまった」
とかすれ声で答えられる春爺。一方で、毎晩のようにドアから「一緒に寝よう」とナンパされていた元気な日々でした。