第二章 忠臣蔵とは何か
時代背景と事件の伝承
時代背景
一連の事件があった元禄時代後期は、徳川幕府開闢(かいびゃく)から概ね百年が過ぎ、徳川将軍を頂点とする幕藩体制がほぼ確立し、更なる徳川幕府の安定維持を強固なものとするために、幕府内における体制強化もさることながら、各大名家における組織運営の安定を図ることが重要となり、それまでの武断政治から文治政治へと転換が求められていた時期でもある。
江戸時代初期は、徳川将軍への忠誠心を煽ることで徳川家への求心力を高めるため、幕府は各大名家に対して様々な制限を課し、元和元年(一六一五)には諸大名を統制するための基本法「武家諸法度」を発令し、寛永十二年(一六三五)には諸大名に対して二年毎に自らの領地と江戸を行き来させる参勤交代を義務付けるなどして引き締め強化を図った。やがて幕府も安定期に入ると幕藩体制を支える武家社会にも様々な変化が出はじめ、大名と家臣との主従関係にも変化が見られた。
家臣は、それまでの大名との個人的な主従関係より一家の継承を優先するようになり、それまで戦さを生業としていた家臣らは武士本来の姿である戦さ場での武功による出世の機会が失われ、求められるものも次第に形骸化され、その役割も戦闘要員としてよりは官僚化が進むこととなる。勿論武術の嗜みは必須ではあったが、それ以上に学問や算術が出来る者が重用されはじめると、それまでの地位や家格が優先される世襲制が構築され、家臣らは隠居後における自らの家をそのまま存続させることに重きを置くことへと意識が変化していく。
戦国時代には、殊勲武功が論功行賞として評価される一方で、負け戦の場合は自らも主君に追従して戦死するなど、主従関係の絆を示す場があったが、江戸時代に入ると、主人に対する絆や忠誠心を体現する機会がほとんど失われ、その必要性自体も見直されることとなり、新たなる自己表現方法の一つとして殉死が復活する。
江戸時代初期には生前に主人から受けた様々な恩恵に対する代償として、主人が亡くなると家臣はその恩に報い、また自らの忠誠心の証しとして命を差し出す殉死が見られるようになる。
殉死という行為自体は、以前から存在しており、崇高なものであるとの認識があったが、いつしか殉死が殉死者の家格や家禄をそのまま維持継続させるための装置になってしまっていたことから、江戸時代初期には大名が亡くなった際に見られた殉死は、家臣としての忠誠心を示す行為であるのと同時に子孫への安定的な家督継承を担保する狙いや思惑が含まれていたとも言える。