巴里のアメリカ人
アーサー・フリードは土曜の夜、ビバリーヒルズのアイラ・ガーシュイン宅でポーカーやビリヤードを楽しむのが常だった。
ある晩フリードはアイラに言った。
「ずっとパリについての映画を撮りたいと考えてるんだが、“パリのアメリカ人”という題名を売ってくれないか」
アイラの亡くなった弟、ジョージ・ガーシュインが作曲した交響曲である。アイラはジョージの財団を管理していた。
「かまわないよ。ただしガーシュインの曲だけを使ってくれるならね」
契約が成立し、MGMからアイラに楽曲とタイトルの使用料として十五万九千ドル、さらにコンサルタント料五万六千ドルが支払われた。
しかし、ガーシュインについては伝記映画「アメリカ交響楽」(一九四五)がすでに作られており、フリードは同じような映画を製作するつもりはなかった。
彼は第二次大戦後間もなく、除隊したアメリカ兵がパリで絵の勉強をしているという記事を読んだことがあった。それを題材にストーリーを作り、ガーシュインの音楽と印象派絵画で彩りを添え、本格的なバレエを入れようと考えた。
監督はミュージカルと美術に対する造詣の深さを考えると、ヴィンセント・ミネリ以外に考えられなかった。脚本家には原作なしで素材に肉付けしながらストーリーを作り上げる力が必要だった。フリードはその頃MGMで「恋愛準決勝戦」の脚本を仕上げていたアラン・ジェイ・ラーナーに依頼した。後に「マイ・フェア・レディ」や「恋の手ほどき」の脚本、作詞で知られるラーナーは、一九四七年にブロードウェイで「ブリガドーン」をヒットさせたばかりの気鋭の脚本家だった。
彼の記憶によると脚本の依頼を受けたのは一九四九年の晩春だったという。一旦ニューヨークに戻ったラーナーは再びハリウッドを訪れ、九月から執筆にとりかかった。
だが書き始める時点で決まっていたのは、舞台はパリ、主人公はアメリカ人の画家でガーシュインの曲を使うということだけだった。
使用する曲もわからない段階で脚本を作り上げることは容易ではなかったが、ラーナーは十二月に最初の原稿をフリードに渡すと、翌一九五〇年三月の自分の結婚式前に、残りの脚本を一気に書き上げた。