思い立ったら、先人に手を合わせる
家系図で言うと、自分から10代さかのぼると1024人の先祖がいると言われます。さらに40代さかのぼれば、一兆人を超えるといいます。
つまり、自分が今ここに生きているということは、多くのつながりのおかげであるということに気付きます。
「自分を大切にしなさい」と言われたことがあります。先に亡くなった先祖の方々が連なった最後尾が、私だからです。
自分を粗末にすることは、多くの先祖に申し訳ないということなのです。もしも、たった一人になって『孤独』だと感じても、最後尾の自分は一人じゃないと思えます。
そう思えると、私がこの世に誕生した『奇跡』を痛感し、親をはじめ、先人への感謝は当たり前と思えてきます。
私は、窮地に追い込まれた時は勿論のこと、天にも昇るほど幸せな時にも、報告の意味で手を合わせるようにしています。両親共に他界していますが、私も孫を持ったことで、当時は気付けなかった両親に対する感謝の思いがあふれてくるのです。
亡き両親を思い、手を合わせると、心からの感謝が伝わるような感覚になります。
私には5人の子供がいますが、夫が多忙だったため、長女と長男の出産は里帰り、そして5人目の四女の時は、母が上京し手伝ってもらうという出産でした。
ドタバタの生活の中、母がいてくれたからこそ安心して出産ができたのに、母なのだから手伝いは当たり前のことと思ってしまっていました。
当時、私と同じ年齢だった母が一人で上京し、ヤンチャな4人のギャングと、私の夫との数日間の生活は、どれだけ過酷なことだったか。
今になって、もっと母に感謝して優しくしていたらよかったと思うのです。昨年、長女が3児の母になりました。私にとっての3人の孫は、目に入れても痛くないほど可愛い。
けれど、可愛いのと、責任持って数日間任されるのとは全く違うと、今になって痛いほど分かるのです。思い出すたびに、その時の母の覚悟に心から手を合わせ、「ありがとう。あなたに、もっと感謝するべきでした」と言うのです。
人は亡くなって、肉体の埋葬や鳥葬、散骨などで、この世からいなくなります。しかし、むしろ亡くなったことで、どこという『場所』の概念がなくなる感覚がするのです。
手を合わせる時、亡くなった人や遠い先祖と、いつでも近くでつながっているように感じるのです。
例えば、自分が感動して涙したり、何かのアイディアが突然ひらめいたり、無性に何かが食べたくなったり、急に何かをしたくなったりする時に、自分の先祖たちが、やり遂げたかったこと、やってみたいこと、感じることを私の体を通してしているのではないかと思うのです。
人は亡くなり、『新たな命の誕生』のサイクルを繰り返します。ここにいる私たちは、先祖の思いの受信機の役目をしているのではないかと思う時があります。
54歳で大学院に入学した時のことです。
同じゼミにいたモンゴル人の学生と友人になり、彼の友人のモンゴル大使館の職員の方に会いに大使館を訪れました。その職員の方に、モンゴルで国際交流として着物のショーを開きたいことを話しました。
その職員の方は、在モンゴルの日本大使館の三等書記官の方を私に紹介してくださり、モンゴルでその方に相談するように言いました。
私はすぐに、夫にモンゴル行きを許可してもらい、一週間後にその三等書記官の方に会いに行ったのです。あらかじめ、私が着物のショーを開きたいということは伝わっていたので、三等書記官の方は用意されていたように、私にこうおっしゃいました。
「オペラ劇場がありますが、すでにご覧になりましたか? 着物のショーをするなら、私はそこがいいと思いますよ」
と切り出されました。