船中日記と回想
人に見せるための日記ではないので文章がこなれていないが、気持ちはよく伝わってくる。晩年環は夫とのやりとりを回想して語っている。(4)
お船が香港に着く前の晩のことでした。私は生まれて初めて洋服を着ようと思って三浦に話しましたら、
「日本の婦人が洋服を着ると、胴が長くて足は練馬大根のように短かく、まことにみっともない。船中では着物を着ていて、向こうへ着いて、どうしても洋服を着なくてはならなくなるまで洋服を着るのはお待ちなさい」
「だって私は、まだ一度も洋服を着たことがありませんから、向こうへ着いてから初めて着るのではよけいみっともないと思いますの、だからお船の中で着馴らして少しでも着たかっこうの良いようにしておきたいのよ」
「向こうに着いてから、西洋の婦人の着方を良く見習った方が良い。船中で妙な癖でもつくとよけいみっともない」
「いいえ、妙な癖などつけません。一日でも着馴らした方が良いと思いますのよ」
私は洋服を着ることを強く主張いたしましたところ、
「今から夫にさからうようでは、末恐ろしい」
と、三浦はおこりました。私はそんな気で申したのではありませんでしたが、この船中の洋服事件が、生まれて初めての夫婦喧嘩でした。
日記と回想の間には三十年の年月の経過がある。世界のプリマドンナとしてその名声を一身に受けて帰国し、今は亡き夫との初めての諍いを語る環の語り口はいたって楽天的であるが、日記の環は痛切なショックを受けている。
環の生涯を通じてこの時ほど返すことのできない絶望の渕に立つ己れの弱さを感じたことはなかったのではないか。
「もう教育することは出来ぬ」という三浦の言葉の中に夫の愛情を超越した庇護者としての、時代と男の立場を見ることができる。
この政太郎と環の洋服事件は、その後の二人の生き方を象徴するものであった。
環は洋服を自分の工夫で早く着馴らし一人前の洋装をしたいという自立の気持ちが先に立つが、政太郎は本場の着方をよく見習った上で本格的な着付けをした方がよいという風俗習慣への順応といった常識でものごとを処理しようとする。