渡欧 環と周辺

明治四十二年(一九○九)二十六歳の環は「歌か、家庭か」と新聞を賑わして、藤井善一と離婚、遠縁の三浦政太郎との関係が噂され音楽学校助教授の職を失うことになる。

三浦政太郎も東京帝国大学医科大学三浦謹之助の医局を追われ、シンガポールゴム園の三五診療所に勤務する。

環は一人暮らしの母登波と麴町の家で個人教授の日々を続けるが、程なく帝国劇場の開場(明治四十四年三月)に伴い、迎えられて歌劇部主任として楽界に返り咲く。

新作オペラ《胡蝶の舞》《熊野》《釈迦》に出演したが人気絶大な彼女に対する帝劇女優の反感と確執に悩まされる日々でもあった。

千葉秀甫(一八七○?〜一九一四)との関わりにおける『世界のオペラ』の出版やイタリア歌手サルコリーとの共演、執拗な秀甫から逃れるため三浦政太郎を追ってのシンガポール逃避行、政太郎の郷里掛川(旧曽我村原川)における父三浦藤平(一八四五〜一九三)に祝福されざる結婚式など彼女の一挙手一投足が世間の耳目を集めた。

留学まで

東京音楽学校研究科在学中「藤井環、音楽研究の為洋行」と新聞に報じられた。(1)

当時の環の精進ぶりは学内外において著しいものがあり、学内選考も大方の一致をみたと思われる。既に幸田延(一八七八〜一九六三)、幸田幸(一八七八〜一九六三)の海外留学があり、瀧廉太郎、島崎赤太郎(一八七四〜一九三三)も留学している。

しかし彼女はその後の諸般の事情で音楽学校在職中もその夢を実現することはできなかった。一九一四年五月二十三日、環は日本に万感の思いを残して神戸港から日本郵船熱田丸で欧州へと出立する。

洋行にあたって彼女は夫、政太郎が留学するので、ほんの序に出かけるのだと控え目に記者達に語っている。当面の行先はベルリンでリリー・レーマン(一八四八~一九二九)について声楽の勉強をしたいと考えており、幸田延の紹介状と伝言を携えていた。

洋行経費は二カ年分を工面しており、滞在中にはフランス、イタリー巡りも計画し、オランダでは研究科時代に何かとお世話になったラウドン公使夫人を訪ねる楽しみもあった。

まだ見ぬヨーロッパへの思いは募る環ではあるが、既に家庭生活に馴染んでもおり、彼の地の高層コンクリートの建物で暮らす味気なさも危惧して「庭木に雨の滴る景色など見られませんそうで」などと弱音もきかれる。

三浦夫妻は最初シベリア鉄道経由で渡欧する予定で冬支度を整えていた。旅券の手続きも完了し、切符の申込みをしたところ五月七日まで満席で急遽船に切換えて夏支度をするという慌ただしさであった。

出発に先立って小石川の山崎光子〈直方夫人〉方で送別会が開かれたが二十畳敷きの広間で教え子斎藤佳三たちとダンスに興じるなど賑やかなひと時を過ごす。