新京極再訪
幸か不幸か、私は中学、高校の修学旅行で京都を訪れています。
今となってはそのようなパターンを歓迎すらするものの、当時には決してそうは思わなかったはずです。思い返しても大した想い出は浮かんでこないし、残した写真の中のほんの数枚が、辛うじて残像となっている程度です。
中学生の時、旅の終盤だったでしょうか、新京極で土産を買う時間が設けられていました。新京極は簡単に説明すればアーケードの設けられた商店街で、土産物店、衣料品店、飲食店などがひしめき合っています。
四条通りと三条通りの間、すぐ東には河原町通りがあり、京都市内随一の繁華街の一角といっていいでしょうか。お隣には寺町京極という同じような商店街が並行してあり、これまた有名な錦市場も隣接しています。
この年になって、この地域を歩き回ることを、旅の楽しみのひとつとできています。土産を買うこともあれば、晩ご飯を食べる店を確保するために徘徊することもある。
それとは別に、目的もなく見物するだけのこともあります。往時ですが、中学3年といえば、血気盛んな連中もいなくはありません。
修学旅行ならば、他の学校の生徒だって少なくない。中学生だけでなく高校生もいることだし、気をつけていないとぶん殴られたり金を脅し取られたりする、そんな噂も囁かれていました。
当時からマジメだった私は、学生服の詰襟をきちんと留め、何人かのクラス・メートと固まって歩きました。中には相手校に負けじと、真っ先に木刀を買った者もいましたが、結局は何のトラブルも事件も起きずに済みました。
私は自宅用の土産にと漬け物とお茶を買い、中学生なりに京都気分を味わったのかどうなのか。ひとりとぼとぼと新京極を歩いていると、少年だった自分が向こうから歩いてくるような錯覚が起こり、幻影が見えなくないかもしれない。
まあ、あり得ない話ですが、たまにはこんな無駄話を織り交ぜてもいいかもしれない。少し誇張するなら、大した記憶が残っていないながらも、ちょっとは懐かしい気だってするのだから不思議です。
いずれにしても、京都は大人の街なのだという気がします。遠足や林間学校のように、修学旅行やツアーにも否定的な私がいうのもなんですが、大勢で闊歩されては他者はたまったものではありません。
ハッキリいって、迷惑以外の何ものでもないのです。修学旅行にも得るものがない、全くの無駄だと断言する気はありません。ただ少なくとも、京都は大人の街でしょう。
大人になったからこそ、その魅力を理解でき、噛めば噛むほど味が出てくるような気がします。同じ自分ではありながらも、往時とは全く別物の、違う足で歩いているようにも感じられます。
旧き京都の旅
1993年11月6日から13日までの7泊8日で、京都を中心とした関西の旅へとでかけました。
京都には、友人のA君が在住しています。彼は元々は、我が家の近所の床屋さんで修業のために働いていた人物で、すでに一人前となり、この2年半ほど前に実家がある京都に帰り、現在は自ら理髪店を営んでいます。