中国の古典、周礼の中に「方相ほうそう氏」としてこの「難」の文字が出現している。

一方、現代の韓国にも「難」姓が存在するという。近年、中国の河南省に「難氏の石碑」が発見された。韓国の「難氏」の方々かたがたは集団で河南省におもむき、先祖の石碑に対して敬礼の儀をされたという(「人民日報」)。すなわち、三世紀の難升米は、あるいは今日の「韓国の難氏」(北方音では「ダン」、南方音では「ナン」)の一族だった可能性が生じたのである。

この立場に立つと、従来の数々の「困難点」が解消する。 たとえば、倭人伝には「魏の天子が俾弥呼に与えた詔書」が長文掲載されている。また正始元年(二四〇)には難升米が倭の女王からの「上表文」を献上している。いずれも、倭国側に並々ならぬ「漢文の素養」のあったことを強くうかがわせる。しかも魏側は倭国側の知的状況をよく熟知していた。そう考えざるを得ないのである。

もし、難升米が、中国もしくは韓国の渡来人、いわゆる「帰化人」であったとすれば、これらの疑問は氷解しよう。しかも、女王国から洛陽への道は彼の先祖が辿った道を、いわば"逆行"したことになろう。自然である。いずれにせよ、もしこのテーマが成り立つとすれば、日韓交流史、また日本の古代史上、今後決して逸することのできぬ、一大礎石となること、疑いがない。

わたしは韓国の人々の各家に秘蔵されるという「族譜ぞくふ」の中に、「難」姓の有無をふくめ、その痕跡こんせきはないのか、またその関連の伝承はないか、その応答を一日千秋の思いで待つものである。 「難」は「単」であり、「おにやらい」と同義であるという。

※注1: 三国志の帝紀(三少帝)の「初出」では「俾弥呼」。倭人伝では「卑」と略記。

※注2:紹熙しょうき本・紹興しょうこう本とも「景初二年」。「景初三年」は誤り。他稿に詳述。(『なかった──真実の歴史学』第六号)二〇〇八・八月七日 記

付記:本原稿は、ミネルヴァ書房刊『なかった──真実の歴史学』(第六号)に掲載されたものであり、著作権を管理されている遺族の方の了承及びミネルヴァ書房様のご厚意により掲載が実現したものです。