そして、身体に刻み込まれたこの体験は、学校現場における実践に生かされていることは言うまでもないが、同時に、分からない授業に直面している生徒たちに、どう対処していったらいいのか、どう授業改善していったらいいのか、生涯に亘って探求していくべき課題ともなるのだろう。

他方、この問題をタブー視している教師は少なからずいるように思われる。それも分からないのを、うまくいかないのを、ダメなのを、全て子どものせいにして……。

無論、子どもたちに先生を替える力などはない。

皇紀夫臨床教育学における「教師再教育」──「全て否定してあげますよ!」

京都大学大学院教育学研究科臨床教育学専攻二種(臨床教育学系)の院生となり、皇紀夫先生が正式に指導教官となった。

臨床教育学講座の二種は、現職教員が学校に所属し、教育現場を離れることなく(2年間休職しての在学は特例)、教育研究に携わることをねらいとして開設されていた。

そのため、特別に土曜日にゼミが開設されており、院生(一種・二種)、学部生、あるいは、滋賀県より派遣されてきた研修の教員などさまざまな顔ぶれが集い、テキスト解釈や事例検討など多種多様な研究が活発に行われていた。

その後、その流れをくんだ臨床教育研究会が学外で「土曜会」と称し、年間に5~6回、令和2年現在も継続して開催されており(令和2年度は、コロナ渦のために休止)、それは皇先生の言う「教育相談」の場として、有効に機能してきた。

田中孝彦・小林剛・皇紀夫編『臨床教育学序説』(柏書房2002年)の「教育『問題の所在』を求めて──京都大学の構想」において次のように述べられている。

「教育相談は先の『語りの筋を発見する』場面であると同時に来談する教師の再教育の機会としても位置づけられたのである。」(22ページ)

そうして皇先生始め、多くの教育関係者の方々に鍛えられ、「教師再教育」を受け、「問題の所在」を語り出すために、この書の執筆に至っているのである。

皇先生の教えは、そう容易いものではなかった。土曜会で、体育の器械運動(鉄棒)に関する事例研究を発表した時には、厳しい言葉が次々と飛び、最後には、「全て否定してあげますよ!」と言われた。

この時にメルロ=ポンティ(1908~1961年)の身体論に関心があると伝えると、

「メルロ=ポンティの研究者になったところで、どうせ四流か五流の研究者にしかなれませんよ!」

と言われた。後になって、そうおっしゃられた意味が十分に理解できるようになり、心から感謝しているのではあるが、果たして、本書『教育現場の光と闇~学校も所詮〔白い巨塔〕~』で、その期待に応えられるだろうか……。

語りの筋は間違っていないと信じたい。