幾度も逢瀬を重ね、二人の関係も密になってきた頃のこと。
お幸はとうとう、藤七郎と駆け落ちをすることに決めた。
お菊にはこっそりと話していたのだが、彼女は黙って寂しそうな表情を浮かべつつ、頷くだけだった。
その他には誰にも漏らしていない。ゆえに、いかに見つからずに目的の場所まで行けるかが鍵だった。
皆が寝静まっているせいか、鳥の鳴き声と、虫の鳴き声、風の音以外に物音はなかった。
お幸は、渡り廊下で与七とお吉が寝ている離れに向かって軽く頭を下げた。
そして小さな声で、「ごめんなさい、……ありがとう」と告げた。
そのまま裏口へと向かうと、木戸の付近で藤七郎が待っていた。
「藤七郎さん」
お幸の呼びかけに、藤七郎は軽く頷くだけにとどめておき、なるべくきしみ音を出さないように気を配りながら戸を開け、外に出た。
満月が二人を照らしている。
その月は二人を咎めているのか、祝福しているのかはわからないが、見守るようにあった。
※本記事は、2020年12月刊行の書籍『水蜜桃の花雫』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
登場人物
吉川(きっかわ) 小説家 「私」
御巫(みかげ) 古書店を経営 博学
由津(ゆいづき)木 俳優 時代物を得意とする
港(みなと) ベンチャー企業を一代で築き上げた凄腕
都竹(つづき) 警視正
《水蜜桃の花雫》
お幸(ゆき) 近江屋の主人の孫娘 跡取りとして育てられる
藤七郎(ふじしちろう) 近江屋へ奉公に来た青年
与七(よしち) 近江屋の主人
お吉(よし) 近江屋の女将
佐助(さすけ) 近江屋の番頭
お菊(きく) 近江屋へ引き取られた元舞妓
お弓(ゆみ) とある農村の大地主の娘 近江屋へと嫁ぐが双子を生んだため離縁される
《薔薇の花影に約束を込めて》
高峰(たかみね) 倫也(みちなり) 日本帝国海軍中尉 元華族
美波(みなみ) 百合子(ゆりこ) 倶楽部〈青い満月〉で雇われている踊り子
四条(しじょう) 倫也の上司
信濃(しなの) 〈青い満月〉のボーイ
美波(みなみ)博理(ひろみち) 百合子の兄
美波(みなみ)直哉(なおや) 百合子の父
高峰(たかみね)善造(ぜんぞう) 倫也の父