合唱
「夢の間をしき春なれど〳〵憂きには堪へぬ眺めかな憂きには堪へぬ眺めかな」
ゆや唱
「ふるさとの老木の柞風をいたみしづ心なき物おもひ都の花に引きとめられこゝろ空なる我身かな」(朝顏、侍女登場)
侍女、白(注・科白)
「のう〳〵池田の宿より朝顔が参って候」
ゆや、白
「なに朝顔が参りしとや」
朝顏、白
「そういふお声は熊野様か」
ゆや、白
「おゝ朝顔かあら珍らしや近う〳〵、さて母人の御いたはりは何と御入あるぞ」
朝顏、白
「はや頼み少う御入候これに御文の候御覧候へ」
《熊野)は台本作者は勿論、出演者も帝劇関係者も日本の伝統芸能に西洋音楽の独唱、合唱、オーケストラを使えば、日本独得の歌劇が生まれるとして、一同燃えるような意気で熱演したが、新作への期待が大きかっただけに結果は無惨で、演奏評はことごとく不評であった。
妹尾幸陽(一八八〇~一九六一)の「音楽が実に低能であって少しも熊野の風を解していない。云はゞ熊野があって音楽が出来たのではなくて、何かの音楽に熊野をコジ附けたやうなものだ」に代表されるような評は、帝劇が当初から掲げた和洋調和の前向きな姿勢に少なからぬ制動となった。(32)
嘲笑と反目の渦の中で環は、「音楽のメロディの美しさも、歌の味もてんでわからない観客」ときめつけ、創作力の貧困と見物の無理解が失敗の要因となって終幕を迎えた。
佐藤紅緑は観客のすべてが柴田環に嘲笑を浴びせたが、《熊野》の失敗は果たして環の罪であろうか、としてそれを否定している。
失敗したのは作曲者の罪であり、観客が笑ったのは曲が不調和でその不快感が失敗の原因だとしてその例に、ユンケルが能の花見の人を上野や向島で浮かれ歩く花見客と思っていたことなどを挙げている。(33)
しかし、英字紙の中には、「ユンケルの音楽は美しく、決して不成功ではなかった」とする評もあり、西欧の人々が《蝶々夫人》を見る感覚として一脈通じるものを感じさせる。(34)