第一章 小樽 人生の転機は突然に

熱が下がって三日目。「今日は体を少し起こしてみようか」と犬尾婦長は言いながら、両脇を抱えて起こすように二人の看護師さんに指示を出した。

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上半身が垂直近くになるやいなや、目の前があっという間に暗くなっていった。頭もくらくらし、血の気が引くとはこのことかと思った。

「ああ貧血だ」­

慌てながら体を元に戻そうとする彼女たちの声も、こもった声でしかも遠くから聞こえてくるような小さな音であった。

目にも耳にもくることが分かった。次の日も同じように起こされ、同じような結果だった。ただ起こされてから背中を支えられてではあるが、少しずつ貧血の状態は軽くなっていった。­

「今日はお風呂に入るわよ」

と弾んだ声で婦長は言い、「よかったね」とも言ってくれた。

「はい」

もう一カ月以上も湯船に浸っていないことを思うと嬉しい気分になった。床がタイル張りのやや広い浴室には瓢箪の形をしたステンレス製と分かる大きな浴槽があり、その横に大人一人が横たわれるくらいの目皿の格好をした編み状の台が、油圧式の金具に取り付けられていた。

あの台に載せられ、あの浴槽に入れられるんだなと分かるのに殆ど時間はかからなかった。台の上に載せられた体が下ろされ、少しずつ湯面に近づくと暖かい湯気とその懐かしいぬくもりが顔面に感じられた。

「あれ」

思わず唇から漏れた。何も変わらなかった。ベッドに寝ているときの暖かさがそのままで、足の踵やふくらはぎが先にお湯の中に沈んでいくのが見えるのに、皮膚を通し瞬時に伝わるはずのお湯の快感が全く感じられない。

怪我以来いつもベッドの中で感じているジリジリとした少しの痺れ感と意識することのない体温が、そのままの感覚で沈んでゆく。湯気を感じる嗅覚や沈んでいく脚の視覚的な感覚と、何も感じない皮膚の感覚との間に、大きな乖離があることに強いショックを受けた。

腿でも腹部でもお湯に浸ってない状態と何も変わりはない。腕もそうだった。手首から先は手の甲も掌もお湯の暖かさを感じる感覚がなく痺れ感のみが残っているだけであった。

力こぶが作れる上腕二頭筋は辛うじて感じられたが、その裏にあたる上腕三頭筋やその下の皮膚は触覚の機能を失っていた。脇の下に近い腕の上部、胸や首のところまで来るとやっと過去二十一年以上感じ続けてきた風呂の感覚が蘇った。

うろたえた心の動きを周りの人に気づかれないよう、どう表現していいのか一瞬分からなかったが正直なところ動揺は隠せなかった。

感覚がないってこういうことなのか……。