第一章 小樽 人生の転機は突然に
従兄やその弟と妹の、風貌やけれんみのない話し方が好きだった。
【関連記事】「出て行け=行かないで」では、数式が成立しない。
従兄のお嫁さんはいつ行っても優しく親切に接してくれた。兄弟喧嘩が多かったがいつも夫よりもその弟を立てていた。賢そうな小学校低学年の女の子と、幼稚園の先生をしている母親の四人暮らしだった。
口数が少なく表情もあまり変えない母親には「克っちゃん」と呼んでもらってはいたがなんとなく話しづらかった。
家に戻ると誰の姿もなかった。父は仕事で県外に、二人の兄も同居はしていなかった。結婚二年目の長兄夫婦との三人暮らしだったが義姉は外出していた。
部屋に入ると家出したときの布団がたたまれており机の上に紙袋が置かれていた。中を覗いて取りだしてみると真新しい一冊の本であった。
表紙には『こころ』の文字が浮かんでいた。手紙やメモはなかったが長兄からのものであることはすぐに理解できた。そのときのことを話してみようかと思ったが恥ずかしくてやめた。
「俺、まだやりたいことがあったんだよなー」
天井を見ながら呟くと、
「お前まだ童貞なのか」
と、少し間をおいて長兄が言った。全くの唐突な質問にびっくりし焦りながら、
「俺らの仲間じゃ吉越ぐらいかなー」
と平静さを装いながら否定した。
こんな会話、兄弟でするかよと内心思いながら窓の外に目を向けた。
「やり残したことって何なんだ」
「大したことじゃないからいいよ、それよりもし俺が一生歩けなかったらどーすんの」
「心配せんでいいよ、子供が一人増えたと思って面倒見てやるから」
長兄の覚悟に対してうわの空で聞いていた。またその後の体の回復具合についても、その頃はまだ何も考えていなかった。秋田出身の一年後輩にあたる工藤のご両親に紹介され、東京の病院へ転院することになった。
入院後、半年近く経った夏の日だった。
ストレッチャーに乗せられ病室を出るとき、主治医と婦長さんの他に数人の看護師さんが見送ってくれた。
「ありがとうございました」
「よかったね、元気でね」
婦長さんが声をかけてくれた。