そして間もなく中出阪蔵氏の作ったクラシックギターを買い求めて市内の音楽教習所に通うことになり、そこで知り合ったのが今の夫である。
昭和三十八年私は晩婚ではあったが、結婚してとりあえず同市の郊外の一角にあった六軒の新築の小さな戸建ての貸住宅の一軒に住むことになった。夫は県外にある医療器具の製造会社につとめていた。
その翌年の東京オリンピックが開催された年、私たちは一人娘、るり子を儲けた。そこで数年間過ごした後、私たち家族は改めて祖母の母屋の少し離れたところに古くからあった表通りに面していた一軒家を改造し、そこに住むことにした。
そして日中の子供の世話は夫の母親がすべて面倒を見てくれていた。その後子離れするまでは色々と大変な苦労もあったわけだが、娘は私と同じ高校を卒業して、東京外国語大学のスペイン語科を卒業すると同時にスペインのマドリード大学に入学し、その後現地の男性と結婚して二児をもうけ、ずっとそこに移り住んでいる。
そもそも私たちは用水の西側にあった古い改造した家に住んでいた訳だが、その数年後、そこから東岸の敷地に新たに家を建ててそこへ移り住むことになった。
というのは、おそらく百年近くの間と推測されるのだが、約三〇〇坪の土地が農耕地として近隣の農家に貸してあった。ところがある日突然その土地を返したいと言ってきた。
そこもやはり県道に面した場所であったのでおそらく近隣の土地もしだいに市街化され自動車の交通量も次第に増えてきつつあったということで、広い農地をトラクターなどで往来しながら農業を営み続けていくことが難しくなってきた、という理由があったのだろうと思う。
いずれにしても私たちにとっては大変ありがたいことであった。その土地はまだ農耕地であったにもかかわらず、何本かの樹齢百年ちかい大木があって巻き付いたツルやツタなどが崖際に沿って生い茂っていた。
そこは昼間でもうす暗いような土地で、以前の西側の土地とくらべれば、まだ原始的な自然がかなりのこっていた。