第三章 逢魔が時:始まっていた戦い
これは、私の父稔が、昭和15年(1940年)第35期生として入学した、京城龍山地区の元町一丁目にあった小学校の沿革史になります。
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明治36年(1903年)2月に活発化した朝鮮近代化事業のため入植した日本人の児童7人のために、自主運営によって開校(正式認可は明治44年)してから、大東亜戦争(太平洋戦争)終了後に、アメリカの指示によって昭和20年(1945年)9月24日に関係者立ち合いのもとで朝鮮側に引き継がれるまで、歴代校長が記録したものを日本に持ち帰り、最後の学校長山本勝大氏が総まとめしたものです。
引継がれた学校は、現在も同じ場所に残っています。お手元のスマートフォンやパソコンなどを使いGoogleマップに、ソウル南汀小学校(Namjeong Elementary School)と入力されればすぐに確認できます。
その場所からすぐ下の、鉄道の施設が龍山駅と呼ばれていた駅やその右側に広がる広大な土地が、旧大日本帝国領朝鮮半島守備の要、朝鮮軍司令部と、第20師団などが置かれていた軍事施設になります。
ぜひ、昭和9年(1934年)の地図と見比べてください、日本領時代の面影が残っているのが感じ取っていただけるはずです。
そして、59ページの沿革史や龍山一帯の地図は、日本のマスメディアや学者、弁護士が、公正な調査、報道をしていれば、みなさんに届いていないとおかしい資料でもあります。
なぜならば、ここが1990年代に入り、急に朝日新聞社によってキャンペーンを張られ既成事実化されてからのち、朝鮮半島に住んでいた日本人の抗議を無視し、犯罪者のレッテルを貼ってきた、野党を中心とした一部の国会議員や学者、弁護士たちがしつこく韓国側と連携し騒ぎ立てている、朝鮮総督府と日本軍が「強制連行した慰安婦運び出し」を行ったとしているおもな輸送現場になるからです。
当時の生活実態や地図は、相手側の証言通りのことが行えたのかどうかを検証するうえでも欠かせないはずです。このような資料や地図は「従軍慰安婦強制連行問題」の議論の際に、使われ知られていて当然なのですが、おそらく、みなさんは初めて目にしたのではないでしょうか。
なぜならば、総督府と軍、輸送として鉄道が関与していた疑いなのですから、京城で暮らしていた日本人、そのなかでも龍山一帯(軍司令部、満州鉄道施設、朝鮮総督府鉄道局、民間事務所、日本人住宅街がありました)の実態調査が必要なはずですが「従軍慰安婦強制連行問題」が朝日新聞社によってつくり出されて以降、日本政府、マスメディア、日弁連、大学研究機関などが、そのような大掛かりな聴き取り調査を行った話が存在しないからです。