第3章 上肢をはずす
週が変わって、今日の午前中は組織学実習だった。スケッチを早く終わるものは大体決まっている。紫藤麗華や楠田は大体いつも早い。いつの間にか紫藤も出席していて、竹田は右足をギブスで固め松葉杖をつきつつも既に復活している。
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なんだかクラス全体に少し活気が戻ってきたように感じた。今日は早く終わっても午後から解剖学実習があり、それで帰れるわけではないので、誰もがゆっくりしている、僕も木本君も。
午後の解剖学実習では、まず肩関節周囲の、大胸筋、上腕二頭筋、などの筋群を確認する。三角筋を中央で切断し、めくりかえして、滑液包、烏口肩峰(うこうけんぼう)靭帯、烏口鎖骨靭帯を見つけて切断する。
肩鎖関節の関節包を切開すると、鎖骨を肩峰からはずす事ができる。肩関節は人体の中でもっとも運動範囲が大きいと、実習書に記載されている。
ところが、関節窩、すなわち上腕骨の骨端を埋め込む穴が小さく出来ているらしい。もし穴が大きくて、深く埋め込まれたら、運動範囲は大きくなれないだろうから、自然なことだが、すると安定が悪くなる。
そのため、周辺を靭帯で補強しなければならないが、上腕骨の回旋に携わる筋群の腱が骨頭を包んでその役目を果たしている。これを回旋筋腱板というらしい。
この腱板が老化によって変性すると痛みが生じ、これが俗に言う五十肩の原因の一つであるという。
つづいて、肘(ひじ)の関節を調べる。関節包を剖出するために、上腕、前腕からの筋や腱、靱帯を切断するのだが、合わせて十数本あった。ようやく現れた肘(ちゅう)関節の関節包の中には、上腕骨1本と前腕の橈骨、尺骨の2本が関節を作っている。
骨学でみたように、上腕骨は肘関節の近くで2股に分かれて、Y字のようになり、橈骨、尺骨と関節をつくる。非常に微妙な手の動きを可能にするため、橈骨と尺骨も互いに接する所で関節を持ち、どちらも独特の形をしている。
実習の最中、高久が突然改まった口調で、手を休めずに語り始めた。
「僕はこの解剖学実習に合格して無事進級が決まったら、自分への御褒美として1年間休学して世界一周の旅行に出ることに決めた。先輩に聞いたけど、これから進級試験、卒業試験、国家試験と試練が次々待ち構えていて、それを抜けた所でレジデントの厳しい修行で、レジデントとは住み込みという意味らしいけど、その果てにあるのが、勤務医の激務というお決まりのコースらしい」
「でも、夏休みとかはあるんだろう」
三人がほぼ同時に聞いた。
「あってもせいぜい1週間くらいで、とても学生時代のような長期の休みなど取れないらしいから、今のうちに思い切り旅行に行くんだ」