生命の崇高と人体構造の神秘を描き切る傑作。
ほぼ100日、約3カ月におよぶ正統解剖学実習。死者と向き合う日々のなかで、医学生たちの人生も揺れ動いていく。目の前に横たわる遺体(ライヘ)は何を語るのか。過去の、そして未来の死者たちへ捧ぐ、医療小説をお届けします。
第3章 上肢をはずす
さて、次に進む。爪について、実際に剝いでみるように実習書に指示してある。
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医学部での解剖とはいえ、ここまで徹底的に解剖するとは思わなかった。しかし、医学の進歩のために献体してくれた奇特な方の意志を無駄にしないためには、その方が報いる事になるのだろう。
テキストによれば、爪は皮膚の一部で有るという。その皮膚らしくない硬さと、形状から、爪の根元は骨がつながっていると考えている人もいるらしい。
子供の頃、足の小指を岩にひどくぶつけ、次第に爪が一旦はげ落ちて、生え変わった事が有る。子供の自分にとって、爪が無くなると、指がぶらぶらになるのではないか、と思って心配したのを覚えている。
どの指でもいいから爪を剝いでみろ、と実習書に指示が有る。剝ぎ取った爪や、指の方の爪床(そうしょう)の観察をする事になっていたので、ピンセットで摘まんで剝がそうとしたが、気分が悪くなって来た。
なんとか先へ進もうとするが、生理的な嫌悪感が許さなかった。そこで、実習書を見ると、爪に小さな四角い窓をあける別の方法が記されている。こちらなら出来そうだ、そう思った僕はメスを取り上げた。
そして、爪に突き立て、切り込みを入れようとした。鋭い刃先のメスなら、簡単に切開できると予想したが、思いのほか硬質プラスチックのように抵抗が有る。力が抜けそうになるのを堪えながら、四角に切開を加え、窓を作った。
そして、窓ガラスのような四角の爪をはずす。爪床は遺体では白いコールテンのような外観をしているとテキストは言うが、あまり白い色をしているようには見えなかった。
よその班ではどうなっているだろう、と近くのテーブルを見回すと、今ちょうど楠田が爪を豪快に剝ぎ取った所だった。得意そうにピンセットでその爪を見つめていた。
普段から豪快な言動で、楠木正成に縁の家系だと本人は語っている。次には手のひらの皮切りに移らなければならなかった。僕は今日のところは、かなりうんざりし始めていたが、他の三人はまだ頑張ると言う。
解剖が貴重な体験である事は、さすがに分かっていた。しかし、あまりに義務が多すぎると、一つひとつへの責任感は逓減してくる事がわかった。
人間としては感動が足りないのではないか、と思うほど淡々と、勤めを果たして行く彼等の方が、長続きするらしかった。そのように考えたのがどれくらいの時間だっただろうか、ふと気がつくと三人はもう手のひらの皮切りに取りかかっていた。
ところが、メスを入れて、今までどおり切開をできるだけ長く入れて皮を剝がそうとするが、摘む先からぼろぼろと崩れてしまう。とてもやりにくい。何でこんなにやりにくいんだろうなあ、と僕は思わず呟いた。