出雲
天安河(天の川)に見立てられた漢江側に、三角形を形成する3施設、朝鮮神宮の設計者伊東忠太氏の出身地が山形県であり、古事記においては須佐之男命に討たれた八岐大蛇の生地である越国(こしのくに)であったこと。
京城駅の設計者塚本靖氏が、京都府、朝鮮総督府の壁画「羽衣」を描かれた、和田三造氏の出身地兵庫県が、京都府の丹後同様に、朝鮮に伝わる羽衣(七夕)伝説と同じ豊受大神の羽衣(七夕)伝説の伝承地であったこと。
これら3施設の無事の完成と韓国の維新成就を祈願する意味として、7月7日の七夕の日に結婚させられ、京城駅担当として送り込まれた祖父豊田靖国が、縁結びの神でもある大国主命と、白兎の伝説で有名な鳥取県の出身であったのも、「出雲」と縁の深い場所から選ばれていたからでした。
そして、この「出雲」は、明治40年(1907年)の嘉仁親王韓国訪問の時点で意識されていました。『出雲大神』の第七節神集ひにはこう書かれています。
「毎年十月諸國神々の出雲大社に参集すとは、古来の傳説にして、十月を神無月といふは、此の神集の爲め、諸國の神社に神々坐さゞるを以てなり、されば一般に十月を神無月と云も、單(単)り出雲のみは神在にして神在月と稱(称)せり、大國主神は國づくりの後、顯事(顕事)を皇孫命に讓らせ給ひ、
幽冥の主宰となりて、幽事の大本を統治し、國々各所の國魂神、産土神(ウブスナガミ)等を派遣して治め給ひたるものにして毎年十月に之等地方の神々を参集せしめ、其年に治め給ひし諸事の報告及び来年の事共を、命令或は協議せしめ給ひたるなり、その状恰かも現時の地方長官等が中央政府に集り、或は命令を受け、或は報告奏問し、或は協議をなすと一般なりしなり」
中略「大社にては毎年十月には諸國の神々参集の時なれば、十一日より七日の間は御齋(おとき)と稱して、國造は勿論神職及び一般人民に至るまで物忌(ものいみ)して身を愼しみ、攝社(せっしゃ)上宮離宮と稱す、
俗にかりの宮といふは、諸神の集りたまふ所とて、祝部日(はふりべ)夜勤仕し、十七日には諸神等各々其の國々に歸り給ふとて、神等去出祭を行へり、此夜には上官杵にて、大社の八足門の扉を三回叩き『オタチオタチ』と呼ぶ古例あり」