成長への執着
人は誰でも、生きることに執着をしている。生きるとは、「体が動いていること」を言う。人にはこの生きることに対する執着がある。病気で寝ている人は、大胆に体を動かすことができない。寝たきりになると、つらいと思う。
しかし、ベッドの上の小さな世界でも、動いていることが生きている証拠である。この生存への執着のほか、人間は性に対する執着を持っている。そして成長への執着もある。「成長したい」と思う執着は、尊い執着だ。
「死んだらおしまい」と言う人も、老後は人間としての成長への執着、体がある間の個人的な執着を持つ。一方、体を持たない「魂」が持つ、生、性、成長への執着とは何だろう?
永遠の魂には、体や性別がない。ゆえに、これら三つのうち生、性への執着はない。あるのは「成長への執着」だけだ。この成長は、個の成長だけに留まらない。加えて、魂を包む「成長する家」がついてくる。
「成長する家」とは、家があり、その中で魂も成長して、同時に家も成長する状態を表現した。家と共に己の成長があるが、先に家の成長があり、その後に魂の成長がある。その家は一般の人の家庭と違って、「神の家」である。
その家の数は、魂の数より少ない。もともと家は、複数が住む建物だ。「神の家」にも複数の魂が入っている。家の形は共通した様式がある。人間の家のシンボルを、仮に円錐体としよう。
「神の家」は地上の家とは違って、逆さまの円錐体をしている。安定のむずかしい逆円錐体であるが、これが神にとっては、安定の良い円錐体になっている。安定が悪いように見えて、実は安定している。
そこには重力がない。ジョウゴのように、底の点から上に広がっているため、「神の気」を多く受け止める。始めは下にある神の気を頼り、だんだんと上方の神の気に頼る家である。下方の「神の気」は十分に集まり、エネルギーとなって、下を中心に家が回っていく。
コマのような動きで、中心点を保って家が回転するようになる。魂はその空間の中で、絶えず神の気を受けながら回転し、成長して行く。その魂は複数で、中で成長が高まって行く。
中にいる他の魂は、家族ではなく、親族のようだ。家族のように絆は深くないが、親族のような共通意識を保つ繋がりだ。魂は成長への執着だけを持ち続ける。「人間の執着」に関して話を戻すと、取り去ってよいものと、取らないでよいものがある。
取るべき執着は、仏教でいう百八の煩悩だ。取らないでよいものは三つだ。生存への執着、性への執着、そして成長への執着。これらは取らないでよい、人間の属性だ。