ある旅路
2008年の3月末、父が他界しました。それで私流に、何かいい供養はできないか、考えました。私は母の了解を得て父の遺骨の一部を譲り受け、それを砕いて粉状にし――無論余り声を大にしてはいえないことなのですが――私がでかける山などに密かに散骨しているのです。
2008年の4月以降、樹脂製の容器に入れた父の遺骨をザックなどの中に忍ばせ、私がここぞと思う場所に、1つまみずつ撒くのです。勿論人目を忍んでの行動なのですが、粉状になっておりしかも少量ですから、散骨した骨が誰かの目につくということはまずあり得ません。北は北海道から南は九州まで、その回数は私にも把握できないものとなりました。
そこは山の頂上や峠であったり、お花畑の傍らであったり、深々とした森の中であったり、川の源流帯であったりします。
私の長男坊の挙式があったバリ島にも連れて行ったし、散骨する際には、実際に言葉に出すこともあれば心の中で呟くだけのこともありますが、一声かけるようにしています。冬で積雪があれば「寒いだろうけど勘弁してくれ」とか、桜の盛りなら「きれいだろう」とか、眺望がいい場所だったら「いい眺めだろ」など、その時その場所でかける言葉が違います。けれども、私の心の奥底にあるのは、たったひとつの想いです。
これは(当時)30年近く山を歩いてきたからこそ想い至ったのかと自負するのですが、父の遺骨、あるいは魂などといったものが、自然の法則・循環というようなものに従って、ひょっとしたら私のそばに巡り、還ってきているような気になれるのです。散骨した場所が北海道であろうがバリ島であろうが、身近な所に戻ってくるよう願う部分もないわけではありません。