桜上水の住宅街

洋一は家の前に立った。ひどく大きな家だ。こういうのを豪邸というんだろうな、と洋一は思った。確かに立派な家だが、どこか冷え冷えとしたものを感じる。少なくとも、くしゃみさんちのような暖かな雰囲気は、夜の闇の中そびえたつこの家には微塵も感じられない。

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門灯に照らされた分厚い大理石の表札を、洋一は眺めた。郷田、と彫りつけられてある。ごうだ……。胸の中で呟いて、どこかで聞いたことがあると思った。どこで聞いたんだろう? 少し考えてからハッとした。自分の昔の名前じゃないか。

洋一は小学二年の秋まで郷田洋一だった。今は、母の旧姓である辻と名乗っている。今の名字にあまりに馴染み過ぎていて、昔の名字を思いだすことなどほとんどなくなっていた。

「ごうだ……」

口に出してみる。それから黒いコートの男を思い浮かべた。

もしあの男が、ひろみちという名前だったら──ひろみちを漢字でどう書くのか洋一は思いだせなかった──もしそうだとしたら、あの男は自分の父親ということになる。

頭の中で男の姿を再現してみた。駅の雑踏の中を颯爽と歩くところ。モツ煮込みを買っているところ。ホームで電車を待っているところ。

なぜ男の後をつけるのになんの躊躇もしなかったのか、なぜ群衆の中で男が他の人と違って見えたのか、その理由を自分は始めから知っていたような気がした。