開鑿工事が始まるものの…
こうして、慶長七(一六〇二)年、ようやく長朝は開鑿工事を開始すべき取水口の最適な地点を最終的に決めることができたのである。その頃、当然のことだが、まだ測量機器はなかったので、彼らは夜間ひそかに灯火を目標にして測量するのが普通だった。そして彼は灌漑用水として素掘り水路の開鑿工事をするため、悲壮な覚悟をもって領民に対して三年間の免租を条件に、彼らを総動員させる命令を下したのである。その結果、彼らは全員が率先してこの工事に参加する意思を表明したのである。
ところが、その取水口から開鑿工事を始めてしばらくして、意外な事が彼らを待ち受けていたのである。言い伝えによれば、工事が始まって間もなくのこと、数人が鍬を入れてゆくと、それぞれの鍬が何か硬い石のようなものにぶつかった。しばらくして、そのまま彼らが掘っていたものは同じ一個の完全な岩であるらしいことが分かってきた。そしてついに全体が見えた時、それは人力で粉砕することがまず不可能だろうと思われるほど大きな一枚岩だった。当時としては、彼らにとってこの障害を取り除くことは困難をきわめ、しばらくの間、作業はすべて中断せざるを得なくなったのである。
長朝は思い余った末、この難事の処理のため神仏の加護を求めて、七日間領内の総社神社に籠り祈願することになった。その最終日の夕刻、一人の白髪の山伏がどこからともなくその岩の近くに現れて、領主にある助言を与えるよう云い残して去った、という話が伝えられている。その助言とは、薪となる木材をできるだけ多く準備すること、それと同時に多量の水を用意すること。準備ができたら岩を被せるように薪を積み重ねて火をつける。そして十分に熱して岩が赤くなったところで直ちに用意した水を一気に岩に掛けてみよ、というものであった。彼らがその指示通りにやったところ、巨大な岩は見事に真っ二つに割れたということである。
この難事を首尾よく成功し終えた直後、彼らが白髪の男に礼を述べようとしたが、そのとき彼は忽然として姿を消してしまっていたという。後にその老人は天狗の化身にちがいないと云い伝えられた。それ以来、人々はこの用水を天狗岩用水と呼ぶようになったのである。工事はその後三年を費やして完成し、その難工事の成功によって、新田開発も徐々に進んで米の年間の収益高は以前のわずか六千石から一気に一万石に増加して、農民たちは多大な経済的効果を享受することになった。