偉大な功績をたたえるための碑を建立する
その後、さらに一七二年余り経過した安永五(一七七六)年、時の農民たちは秋元公との共通の精神的な結びつきと感謝の気持ちを表すために、光巌寺の一角にある秋元長朝公の霊廟の前に、自らを明記した碑を建立し、現在でも「力田遺愛の碑」として残されている。我が国の封建時代に、時代を超越してまで領主の徳を称えるため、農民自体が碑を建立するということは極めて異例なこととされている。
そしてさらに一一八年後の明治二七(一八九四)年、当時我が家の先祖の敷地はその天狗岩用水を挟んだ東西の両岸に接していた。それぞれの敷地の北端側を東西に結んだ橋から一〇メートルほど南へ下ったこの用水路の中で、もっとも高低差のあるところに滝が落ちていた。そのすぐ西岸の先祖の敷地の一隅に、滝から流れ落ちる急流を利用してタービンを回して電気を起こし、当時の水力発電としては日本全国で五番目となる総社水力発電所が建設されたのである。この発電所は夜間電灯用としてのみ、主に利根川を挟んだ東の地域に五〇キロワットの送電をつづけていたが、全部で八五九軒の家屋に電灯が点いていた、という記録が残っている。当然、他のすべての家ではまだ灯火はランプであった。またその頃のある逸話が残っている。家で夜遅く、父親に隣の部屋にある明かりを消してくるように言われたある少年が、しばらくして戻ってきて泣きながらこう言ったという。
「一生懸命団扇で扇いだけれど、どうしても消えないんだよ、電灯が!」
当時その発電所の近くには、水車小屋があって古くから天狗岩用水の水利権を持っていた私の母方の祖父が操業していたのだが、彼が短命で亡くなり、水車小屋は操業停止となり、また二十年間続いた水力発電所もやがてその発電規模に限界がきて時代の波と共に操業停止となった。