午後二時から奏楽堂を会場に始まった式典は富尾木知佳教授の学事報告のあと、本科声楽部・福島県平民小倉すえほか二名、本科器楽部・島根県平民泉千代ほか十二名、甲種師範科・鳥取県士族戸田つる子ほか十六名、乙種師範科・埼玉県平民飯野勝次郎ほか十四名、選科(唱歌)・山口県平民貫喬子ほか五名、計五十四名の各代表が卒業証書を授与された。続いて湯原校長が告別の辞を朗読し、文部大臣の祝辞を例の音楽学校取締方針を打ち出した福原専門局長が代読した。
卒業式の謝辞は甲種師範科の工藤富次郎が総代で述べ、このあと卒業演奏会に移った。当日は音楽学校風紀問題が世上脚光を浴びた中とあって各社の記者も多数取材に詰めていたが、この日病気届の環が藤井軍医と去る十五日に離婚したという噂がささやかれると、安東恒子、高橋テツら卒業の才媛の話題も吹き飛んで環離婚真相の取材合戦が始まり各紙は一斉にその内情を報じた。(72)
各紙が報ずる二、三の概要を紹介すれば次のようなものである。
◎女音楽家藤井環子女史の離婚(72)①
女史は良人藤井善一氏と新居を構えて蜜の如き家庭を欲したが、不幸にも子宝なく、軍人気質の良人と、やれどこそこの音楽会だと言って外に出歩く趣味の女史との間には、自ずと性格の不一致を見て、夫は妻を疑い、妻は夫を疑い、昔日の和照たる春光は今日の蕭殺たる霜枯の風色と変ずるに至れること気の毒なれ、善一氏は女史の青山学院出勤を嫌い、女史も自己専門の技術のために善一氏と協議して今回の離婚を見るに至った。(報知新聞)