「美紀ちゃん、黙っとったけど騙す積りはあらへんだんや。いつか打ち明けようと思うてた。普段は親の言うことをよく聞いて大人しい子なんや。ただ、靖夫が可愛かった。跡継ぎやし嫁を持たせたかった。あんたのようなしっかりした嫁が来れば何とかなると思ったんや。靖夫の嫁としてどうかこのことを理解してあげて欲しい」
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道夫は懇願するような視線を美紀に向けてそう言った。
恐怖の上、気が動転している美紀はなんと答えてよいかわからなかった。夫に殺されかけた恐怖と未来への急激な失望が渦を巻き捻じれあって絶望の綱を形成し、それが美紀の胸を容赦なくキリキリと締めつけた。ふらつく頭で何かを考えようとするが何も浮かばず、今何を考えなければならないかもわからなかった。ただ、たった今起こった恐怖の出来事だけが頭で繰り返し渦を巻いていた。
確かに男と女は夫婦となり互いに心を寄せ合えば絆や相手を思いやる気持ちを育て上げることができる。しかし、靖夫は夫とはいえ一月前までは何も知らない他人であった。靖夫の獣じみた口臭と血走った目を思い出すと悍ましく共に生きる将来など考えられなかった。自分は獣に捧げられた生贄だったのか。もう元になんか戻れない。そう思うと普段見せていた夫の優しさも薄気味悪いものに変わった。けれど、義父はまだ一緒にいろ、理解せよと言う。できない。騙された。
そう思った途端、今いる所が悍ましい鬼の住む館に思えた。再び背筋が凍り頭の中が真っ白になった。恐怖と絶望がさらに増し正気ではいられなくなった。騙された。ここにいては殺される。一刻とも、一瞬ともこんな所にいられるものか。ここから離れなくては、逃げなくてはとの思いが急激に湧き起こり、前に座っていた道夫を跳ね除けて美紀はパジャマのまま雨の降る闇夜に飛び出した。