私の故郷は豪雪地で、住人は70歳を過ぎても高い屋根に上り、雪下ろしをしていました。毎年、屋根から落ちてしまう人も少なくなく、雪下ろしは豪雪地帯の悩みでした。若者たちは進学や就職をきっかけに都市部に出てしまい、進む過疎化で年配者の雪下ろしは必須なのです。町の電気屋だった父は、年寄りを屋根に上らせたくない一心で、屋根の雪を解かす発明に取り組みました。50歳を過ぎていた父でしたが、連日屋根の上でさまざまな雪と向き合い、風邪を引いて熱を出しても続けていました。

そんなある日のこと、父はついに屋根の傾斜角度と発熱する金属線を這わせる距離などを突き止め、屋根の融雪機を誕生させたのです。その発明で特許を取得し、そのことを大学生だった私はNHKのニュースを見て知りました。豪雪地帯という環境の中、困った人を助けたいと、父は自分の能力を発揮してくれたのでした。「どんな環境でも自分を活かすところはある!」父の姿を見て、そう思いました。

2002年から2004年、私は5人の子供を連れてアメリカに住みました。そんなアメリカ漬けの環境で出会ったのが、移民した日本人の『盆踊り』でした。アメリカという異国の地で見た盆踊りは、日本の心だと感じました。着物や浴衣を誇らしく着ている日系アメリカ人を見て、着物は日本の財産だと教えてもらえました。

戦後11年たって生まれた私たちの世代は、ファッションや音楽、映画やドラマなど、アメリカのたくさんの文化を吸収して育ちました。その後も、生活様式や合理性という考え方によって、日本らしいものからどんどん離れることが続いたのです。そして、戦後75年を迎えた今、日本らしい日本を日本人が尊ばない国となりました。そんな日本で着物を見ていたとしても、『運命』は感じなかったと思います。

アメリカで見た盆踊りと『着物』は、資本主義社会にある商品としての着物でなく、連綿と続いてきた日本の歴史そのものとして私の中に飛び込んできました。運命でした。