近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。

声楽指導

島本久恵(一八九三〜一九八五)が環のレッスン方法について山崎光子から聞いたところを引用しよう。(60)

どうしても出ない声があって私が諦めようとすると怖かった。出ないことがあるものですか、きっと出る。さあいっしょにと離さずに練習を押しつけて幾度でもくり返し自分の声でこちらの声を誘い出すのです。大変な根気なのです。すると自分にないと思っていた声が出る。知らず知らずに出て、それ出たでしょうといわれて、あっと思う。そんな風で最初の一年間に数音高い声が出るようになりました。

環さんから習ったのは歌や声のほかに、私としてはもっと大きい、教えるということの可能性、それを知らされました。けれども音楽家の内情がわかってみるとああいう教え方をしてくれる人はほかにいないのでした。声楽はどの芸術より肉体によらねばならない。肉体の成熟した豊潤な時期だけに恵まれる生命の短い芸術なので極端に疲労を避ける。幼稚な弟子に身を以て教えるのでは不当に財産をすり減らすことになるのです。

ただ環さんの場合にはちょっと違った。どんなに歌っても枯れない咽喉です。ますますよくなるのです。尤も音楽学校でペツオード先生が「あの人を天才とするのは違っている。天才だけでは達しられない。あの人は非常な勉強家なのだ」といわれたとおり努力、勉強を忘れていたことはないでしょう。自分から言わなかっただけ。ただ、ここの咽喉がどうしても動きませんといったようなことは言われましたね。

山崎光子は高等師範で学んだだけに環からの学習を理念として把えているし、環の才能と努力についてよく知っていた。