(三)家庭レッスン
清国での勤務から帰還し第十二師団にいた藤井善一は明治三十九年十二月陸軍軍医学校編纂部勤務となって上京した。
藤井は音楽学校にほど近い下谷区谷中清水町(現台東区)に借家をみつけ、環も実家から家財道具を移して水入らずの新居を構えた。ピアノも一台新調したがレッスンは従来通り桜川町の実家で行うことにした。
最初の弟子は、地理学の泰斗山崎直方(一八七〇〜一九二九)の夫人となった水田光子であった。当時光子はお茶の水女子師範の生徒でクラスメートに藤井トヨがいて、兄嫁藤井環の自慢話をする。お義姉さんに逢わせたいと桜川町へ光子を伴ってひきあわせたのが弟子入りの動機であった。
昭和二十一年七月、環没後、山崎光子は当時を回顧して次のように語っている。(59)
私は先生が結婚なさった直後にお弟子入りをしたのです。三浦先生はいつでも桜田本郷町まで私を迎えに来て下さいまして、自分の拵へた西洋料理でおいしい御飯を食べさせて、熱心に教へて下さいました。
教ったのは小学唱歌です。学校でユンケルさんに教ったといってはいろんな歌を聴かして下さいました。先生は音楽学校の研究科の生徒だったのです。