「おれたちを直視しろ」
別のひとつがつづいた。
「いつまで逃げつづけるつもりなのだ」
「早いとこ始末をつけてくれないか」
「ゆめゆめ逃げきれると思うなよ」
影はたたみかけてきた。ぼくは思わず耳をふさいだ。力ずくでさえぎった。
はたして、声はもれなく搔き消えた。そうして、「うまくやりすごした」と安堵したつぎの瞬間だった。
ぼくの視界を何かがよぎった。その何かをぼくの目はとらえていた。
目を疑った。見まちがうはずなかったからだ。それは、背を向け逃げ去ろうとする怯懦(きようだ)な自分の後ろすがただった。
直後、すべての影が刃(やいば)となってぼくに向かって伸びてきた。刃先を突き付けるようにして。身じろぎひとつできなかった。できないまま、ぼくは立ちつくしていた。
頭上を幾多の悔恨が叢雲(むらくも)のごとく流れていった。暗く、寒く、苦い影を間断なく落としていくそれら。ひたすら耐えるだけの自分。そして、時間。
どれくらいそうしていたろうか。気がつけば、左手の甲をぼくは見ていた。そこには爪によってつけられた五本の傷痕が浮かんでいた。
そっと口をつけてみた。肉体の痛みはすでになかった。傷痕もいつかは消えるのかもしれなかった。
しかし、ぼくの心に刺さった痛みの記憶は消えないだろう。その傷をつけたかぼそい腕の思いがけない力を、ぼくは終生忘れることはないだろう。
テーブルスタンドの灯りを消し、窓にかかるレースのカーテンを開いた。