公庫の融資、県の補助金交付事務といった実務経験をもとに、日本の金融と補助金の問題点を考察していきます。
補助金の論理
■グループ補助金~グループ補助金の正当性
私は、御両親と奥様がいまだに行方不明になっている、あるスーパー(総合食料品小売業)の社長を知っている。その人はそのことはおくびにも出さず、津波で全壊した店舗を息子さんたちと再建し、グループの共同事業にも奔走している。グループの構成員はみなまじめに共同事業に取り組んでいるのだ。
でも何か無理がある、不自然な感じはぬぐえない。なぜこのようなグループを組まないといけないのか。自発的なものであれば、それは他人がとやかくいうものではない。
しかし、明らかに自発的なものではない。そうしないと補助金をもらえないからグループを組んだのは明らかだ。補助金をもらうためのグループなのだ。
ではなぜ、補助金をもらうためにグループを組まないといけないのか。補助金はグループではなく個別企業に交付されるのだからグループは建前にすぎない。なかには予期せぬ効果を上げている共同事業もあるが、グループを組んで共同事業を実施する事業者側でも、グループ、共同事業の審査をする国、県の側でも、多大の労力が消費、いや浪費されているのだ。
交付決定にいたるまでの事務手続きの煩雑さについては、ここで詳しく述べる余裕はないが、無事補助金が支給されたあとも、各グループは共同事業の実施状況を年一回、国、県に報告しなければならない。補助金をもらって「はい、おしまい」というわけにはいかないのだ、ということだけは言っておきたい。
事業者は、おそらく言いたいことはあるにちがいない。彼らは1時間あれば何百万円も稼ぐことが可能であるかもしれない人たちなのだから。でも、そうしないと補助金をもらえないからやむをえず国の指示にしたがっているのだ。
役所には「事務の効率性」という概念は存在しないし、仕事は可能な限り複雑にするという習性があるから、グループ補助金の事務手続きの煩雑さなどは、たぶんまったく気にしていない。
しかし、私には、お互いの時間と知恵を無駄に消費しているように思えてならない。
なぜ、ここまでしなければならないのだろうか。それは国が「そう簡単に補助金はあげないよ」と意地悪をしているわけではなく、よほどのことがない限り一私企業に補助金を出すことはできない、という伝統的な根強い思想に囚われているからだと私は考えている。
「グループ」はカムフラージュなのだ。あるいは、それをあてがうことでは完全に隠しきれない「いちじくの葉」なのだ。
昭和40年代に、国は高度化資金という融資を推進した。高度化融資の詳しい説明は省略するが、これは個別企業への融資ではなく事業協同組合への融資である。
私がグループ補助金の交付事務に従事していたときに、グループ補助金を申請していた石巻市の水産物加工業を営んでいる、ある協同組合の代表から組合設立の経緯をきいたことがある。
資金力のない零細な水産物加工会社にとって、大型の冷凍冷蔵設備や給排水設備を備えるのは簡単なことではない。