第一部 生涯と事蹟
第二章 音楽学校時代
三 自転車通学
環の自転車姿は大変な評判をよんで自転車美人といったことばも生まれたが、現在の素早い流行と違って女学生の自転車乗りが急に普及したわけではない。
「女学世界」の明治三十四年五月号(第一巻第六号)に丸の内付近に於ける自転車の一時間通行量が職業別に調べられていて興味深い。恐らく朝の通勤、通学時間帯のものであろう。
官公署の多い丸の内界隈では役人の数が多いのは当然として、学生の数をみると神田橋が多く、本郷、神田方面への学生の通学路に当たるためで、日比谷見付は目抜き通りの交叉点でもあり交通量が多くなっている。
それにしても市中人口からすれば自転車所有率は微々たるもので庶民感覚からは高嶺の花の感が強い。
明治三十八年七月十六日付の都新聞は、「女学生にて自転車に乗るものは案外に尠く、女子大学生の十二、三人を頭として音楽学校の七、八人、さては虎の門女学館は流石其の元祖だけありて、音楽学校と匹敵するほどなるが(後略)」としている。(※13)
このように自転車姿の明治期の女学生像は今日の女子高生や女子大生とも若干ニュアンスが異なり庶民の羨望とやゝ好色的な好奇心を女学生の呼称の中に秘めていた。
小杉天外(一八六五~一九五二)の小說『魔風恋風』の読売新聞連載第一回(明治三十六年二月二十五日付)の描写場面「鈴の音高く、見はれたのはすらりとした肩の滑りデードン色の自転車に海老茶の袴髪は結流しにして白リボン清く、着物は矢絣の風通、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八、九の令嬢」は梶田半古(一八七○〜一九五二)の挿絵によって、女学生風俗の典型となり、新しい時代に生きようとする若い女性たちの精いっぱいの生きざまを見るようである。