平安時代に入ると「源氏物語」「枕草子」「日本霊異記」が記され、こころの病をさすことばとして「たたり(祟り)」「もののけ(物の怪)」「ものくるわし(物狂わし)」等が盛んに出てくるようになります。

こうした記述から読み取れることは、人びとがこころの病を生まれついてのものでなく、その人に「もののけ」(怨霊、死霊、生霊、病魔、疫病神、狐狸、鬼、天狗等)が入り込んで、肉体を支配した状態と考えていたのだろうということです。

こころの病をもつ人を、昔は「きちがい(気違い)」ともいいましたが、大正・昭和初期に活躍した精神科医の金子準二氏によると、これは怨霊や疫病神等と「入れ替わった状態」をさすということです。ですから、これを医術によって“治す”のではなく、おはらいや祈禱によって“追い払う”のでした。

つまり、人間はもともと善なる存在であって、もののけが落ちるか追い払われるかすれば、もとの状態に戻るのだと人々は考えていたのです。

たとえば、1072年、後三条天皇の第三皇女佳子内親王はあるとき、「髪振り乱し衣を裂き、帳に隠れてものも言わず、言えばうわ言にして、心全く喪はせらる」(髪をふりみだして着ているものを引き裂いて、引きこもってなにもいわず、なにかいったとおもえば意味不明のことばかりで、心が失われてしまったようだ)という、精神分裂症のような状態になられてしまったそうです。

天皇が神仏に回復を祈願したところお告げがあり、皇女を京都の岩倉村の大雲寺に参らせて「閼伽(あか)井戸」の水を毎日飲ませたところ、まもなく回復したそうです。

この言い伝えを聞いた近郊近在のこころの病をもつ人びとが、家族に付きそわれて大雲寺のある岩倉村に集まり、付近の農民たちが病人たちを世話し、茶屋や宿屋もできました。こうした保養所は、第二次世界大戦までこの地にありました。

このように、日本においてはこころの病をわずらってしまったのは人間ならざるものが「憑(つ)いた」のが原因であり、元の人間に非はないとする考え方が主流だったようです。これを邪険にあつかえば、たたりや災いがあるかもしれません。そのため、そのような状態になってしまった人を社会が殺したり迫害したりすることはなく、むしろ丁重にあつかっていたのではないでしょうか。