ところで、簡単に食品メーカーと申しましても、私どもの財産らしきものは、百坪にも満たないピザレストランのみ。つまり、資金力ゼロ。営業力ゼロ。あるものといえば「美味しい」と自負できる食品群だけ。

このようにゼロだらけの小さなピザハウスが、食品メーカーを志して準備を始めたのが一九八〇年代後半のことでした。メーカー業というとんでもない夢を見たばかりに、私は人生最大の難問にぶち当たってしまいました。

その問題に限っては、やってみればなんとかなるという安易な考えは一切通用しません。なぜなら、言うまでもありませんが、食品製造業を営むからには、建物、設備において自治体の認可を取得しなくてはなりません。私の描いていた設備の設計図とは、経費節減のために今ある建物や設備を最大限に生かし、最小限の追っ付け仕事で済まそうというものでした。

このような甘い考えはすぐに空中分解しました。自治体の食品製造業認可認定担当者はこう言います。

「吉川さん。お気持ちはわかりますが、経費節約は次の段階の問題です。まず、自治体の認定資格を備えた設備にしないと許可証は発行できません」

この言葉で、私はとんでもない資格を取得しようとしていることに、やっと気付いたのです。「アラーッ!」というわけで、さまざまな悲喜劇や思いが詰め込まれた山小屋風のピザハウスは、ついに解体を余儀なくされたのです。

今は遠い昔の話となりましたが、東海大学柔道部の佐藤先生や後の中西先生。そして、ロサンゼルスオリンピックで金メダリストの山下泰裕先生はこの小さなピザハウスで直径五〇センチのジャンボピザをおいしそうに頰張って、いつも笑顔がこぼれていたものです……。

時代は、小さなピザハウスをショベルカーでガリガリと壊してゆきました。なんとかどさくさに紛れながら、二階建ての新築社屋が完成しました。この建物の中に、食品メーカーとして必要不可欠なすべての部門を詰め込んだのです。

スパゲティ、ピザ、パン、ラビオリの各製造室およびコンピューター室。冷凍室、冷蔵室、荷造り出荷室――。

こうして準備万端とはなったのですが、レストランスペースを十分確保できず、山小屋から白壁のモダンな二階建てになったにもかかわらず、小さなピザハウスはもっと小さくなってしまいました。

でも、念願の食品メーカーとしての資格である、「冷凍食品製造許可」「冷蔵食品製造許可」を取得できたのです。

世は昭和から平成へと移り、私にとっても感慨を新たにする人生の折り返し地点でもありました。

幼いころから、ものを作る仕事がしてみたいと思い続けてきたので、食品製造業をスタートできることは、何はともあれ、まあまあ納得できる成果でした。