それを遠目で見て、寺田と紀子は改札口で待っていた。寺田を見つけると、木島は何事もなかったかのように「やあ」と手を上げて微笑んだ。
「久しぶり、元気だったか?」
白いズボンは泥で汚れている。紀子は笑いをこらえるのに必死だった。木島と紀子が照月庵の控室に落ち着くと、寺田がやって来てドアを開けた。
「ばかに楽しそうじゃないか。紅林先生、すみません。こんな奴の、お守りさせちゃって」
「いえ」
「先生、口説かれたでしょ」
「ひどい、私は生贄だったんですか」
「それはそうと、ここのぐるりを、目つきのよくない連中が、ウロウロしているな」
想い出したように木島が言うと、
「去年の幸徳先生の裁判以来、ものものしいからな。社会主義に対する取り締まりは厳しくなっている」
「誰だいそのねずみは」
「本田とかいう刑事だよ。蛇のような目つきの奴だ」と寺田が真顔で答えた。
「それはいい。緊張感も増してくるよ。ハハハ、本当にバカな奴らだよ。おれのような文弱の徒が口にする言葉にすら、びくついていやがる。徳川がつぶれて四十五年、やれ文明開化だ、やれ四民平等だとみんなで囃し立てても、蓋を開けてみればこんな有様だ。なあに、奴らが来てくれたほうがこちらの意気も揚がるというものだ。……裏口はあっちだったよな」
「ああ。出入りの商人の裏口を、女中から教えてもらっておいたよ」
寺田が笑って答えた。
「何だかんだ言っても、捕まっちゃつまらんからな」
少し話しが物騒になってきている。寺田は、静かに二人の話を聞いていた紀子に気付いた。
「あっ、すみません。すっかり怖がらせてしまいましたな」
「いえ、私もドキドキしてきました」
紀子は笑顔で答えた。この人はこの状況を分かっていないかも知れない、と寺田は思った。