勝木は、苦々しくうめいた。受け渡しが出来ないと、犯人逮捕の機会がなくなる。
「すみません」
秀造が、頭を下げた。育ちの良さを伺わせる、丁寧な仕草だった。
そのとき、静かだが威厳ある声が、部屋に響き渡った。
「私が、準備しましょう」
驚いて勝木が振り向くと、いつ部屋に入って来たのか、見慣れぬ男が立っていた。いや、実は見知った顔だ。
ワカタヒデヨシ。サッカー元日本代表。歴代のプロサッカー選手の中でも、三本の指に入る名選手。堂々とした恰幅に、引き締まった筋肉。キビキビとした所作は、現役引退後も全く変わっていない。
部屋の中が、一瞬静まりかえった。捜査員も、皆、動きを止めて男に見惚れた。
「ワカタさん、それはダメです。そんなことで、甘えるわけにはいきません」
秀造は、大慌てだ。ぶるぶると、首を左右に振り続けている。
「今日の夜までに、こちらに届けてもらいます」
その言葉は、口から出た瞬間、既定事実になっていた。
秀造の動きが、止まる。少し間をおいてから、ゆっくりとうなずいた。
「お言葉に甘えさせていただきます。週明けに銀行が開き次第、お返ししますので」
深々と、頭を下げた。
ワカタが、優雅に首を左右に振る。そして、微笑んだ。
「ご存知の通り、天津風の田は、私にとっても大事な田んぼなのです」
なぜ、ここに世界的な名選手がいるのか? また、あの雑草の生えた田んぼのどこが、そんなに大事なのか? 勝木には、全く理解できなかった。
わかったのは、世界のワカタが大事にするほど価値があること。あの田んぼの認識を、改めなくちゃならないということだった。