第一章 三億円の田んぼ
(三)
車窓の田んぼの景色が、飛ぶように流れていく。かなりの速度だが、富井田課長は、鼻歌交じりだ。葉子たち四人を乗せた車は、田んぼの真ん中の農道を走っていた。一車線の農道に、他に走っている車は、ほとんどいない。
この辺は、但馬山地の谷間にあたる米の名産地だ。山田錦栽培の特優地区と呼ばれている。左右どちらを見ても、山の麓まで、田んぼがずっと続いていた。
ところどころに農家の集落と、小さな森。そこには必ず鳥居があった。鎮守の森なのだろう。
「あっ、危ない!」
富井田課長の切迫した声に、助手席の葉子は、スマホから顔を上げた。
前方を飛ばしている軽トラックが、大きく蛇行運転している。その前には、赤いクーペ。見る見るうちに、車間が縮まり、ぶつかりそうになった。
その瞬間、クーペが、真左にスライドして逃げる。凄腕のドライバーのようだ。
だが、蛇行する軽トラックが、再び揺り戻し、クーペへと突っ込んだ。もう、逃げるスペースがない。追突されたクーペは、農道から弾き出され、あぜに滑り落ちた。一方、軽トラは、ぶつかった反動で態勢を立て直し、揺ら揺らしながら、走り去っていった。
「ちっ、なんてこった。ありゃ、酔っ払い運転か?」
富井田課長は、舌打ちすると、グッと車速を落とした。ぶつぶつ言いながら、ゆっくりとクーペの横を通り抜けようとする。
「停めて下さい!」
走り去ろうとする富井田課長に、葉子は言った。
「えっ? 脱輪しただけですよ。心配いりません」
「目の前で事故った人を、ほっとくわけにはいきません」
口調を強めた葉子の目を、チラッと確認し、本気度を悟ったらしい。
「はっ、はい。了解しました! 袖振り合うも多生の縁。手助けして行きましょう」
スッと、農道脇の路肩へと車を寄せ、停める。葉子とトオルは、農道に降り立った。
脱輪して傾いたクーペのドアが、少し動いた。トオルが、運転席に駆け寄り、ドアを引き開ける。
礼を言いながら、ドライバーが這い出てきた。ロマンスグレーの痩身。ストライプのボタンダウンに、細身のジャケットを羽織っている。その男を一目見て、葉子とトオルは驚いた。
「桜井会長?!」
『獺祭(だっさい)』醸造元、旭(あさひ)酒造の桜井博志(さくらいひろし)会長だった。タミ子の店の常連客。葉子も何回か一緒に飲み、酒蔵を訪問したこともある。
「ヨーコさん?! それにトオルちゃんも!」
降りてきた桜井会長も、二人を見て目を真ん丸くした。めったに、物事に動じない人なのに。
「なんで、こんなところに?」
三人同時に、同じ質問が口をついた。次の瞬間に、顔を合わせて笑い出す。
桜井会長は、怪我一つ無い。だが、車の方は、そうでもなかった。衝突された右サイドのボディが、痛々しく凹んでいる。
「ひどい軽トラックだった。田んぼ眺めたくて、スピードをちょっと落としたら、いきなりだもの」
桜井会長が、渋い顔を左右に振った。
「ナンバーは、ひかえたから、捕まえてもらわなきゃ」
田んぼにクラシックの旋律が、流れ出している。幸いクーペのラジオは、無事だったらしい。