第二話 香港遠征物語
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香港の女子野球事情を聞いた私は、自らの幼少期の野球体験を、そして、初めて花咲徳栄高校の女子野球部監督に就任した当時のことを、香港の女子球児たちの姿に重ね合わせていたのかもしれない。
二人の香港の女子選手たちが帰国すると、私の行動は早かった。
まずは学校側に働きかけ、日本の女子野球に関する全般を統括している日本女子野球協会(現在は一般社団法人全日本女子野球連盟)にも、クリニック開催の意向を伝えて直ちに了承を得る。
同時に自らが指導する選手たちにも香港の女子野球事情を語り、もし、現地で野球クリニックを開催するとしたら参加の意思はあるかどうかを問うた。
その結果、学校からの許諾(きょだく)を得て、「将来は指導者になりたい」という希望を持つ選手たちからの参加も取りつけた。
嬉しかったのは、渡航費や宿泊費など、すべてが自己負担であるにもかかわらず、
「香港の選手たちのために」
という思いや、
「自分たちでできることがあるのなら役に立ちたい」
という思いを抱いて、多くの選手たちが進んで参加表明をしてくれたことだった。
参加選手の目途がたったあとの7月末、私は埼玉県本庄(ほんじょう)市で実施された教育研究会において、脳梗塞から奇跡的に復帰された作家の講話を聞いた。その中の、人生のすべてにおいて、
「天に棄物(きぶつ)なし」
という言葉が心に響き、さらにその作家の著書に孟子(もうし)の「志(こころざし)は気の帥(すい)なり」という言葉を書いてもらっていた。この二つの言葉は私のこころを強打していた。
8月の愛媛県松山市での全日本女子硬式野球大会で準々決勝敗退後、広島に帰省した際、研究会での「志(こころざし)」という言葉が頭から離れなくなっていた私は、
──どうしても香港に行く前に、自分の野球の原点と原風景を今一度この目で見ておこう。
と思い、10年前に足腰が弱くなり、自転車に乗れなくなった母の少し小さめの赤チャリで広島を巡(めぐ)った。
最初に訪れたのは、私が小学校3年生の時に初めてキャッチボールを覚え、毎日投げていた原爆スラム街に隣接していた市営アパートの壁であった。そこは当時、四角いストライクゾーンを描き、コントロールを身につける練習を夕食前のひと時に行っていた場所である。
その描かれていたストライクゾーンはペンキで上塗りされていて、私は塗りつぶされたペンキの向こうの遠い過去の思い出に耽(ふけ)っていた。
そのすぐそばには私の幼い頃からの練習を見守り続けた、原爆で被災した楠木(くすのき)の大樹が気高く逞(たくま)しく立っていた。
そのすぐ前には、水の都広島を象徴する太田川が流れており、肩を強くするために、向こう岸に向かってよく小石を投げたところであり、Tバッティングをして同じく向こう岸に小石の打球を打っていた場所でもある。
次に原爆ドーム前にあり、原爆が投下された際、多くの児童が亡くなられた、6年間通った本川小学校の校庭に入った。あの頃、よく行われた子ども会のソフトボール大会で夏の猛暑の中でも元気に楽しんだことが目の前に蘇(よみがえ)ってきた。
また、ソフトボール大会の練習中、自宅付近で大火が発生し、校舎の背後からもうもうたる黒煙が立ち上がったことがあった。練習を中止して太田川を挟んだ対岸から一度も見たことがない何百軒というバラックの家々が真っ赤な炎で包まれ、自宅近くまで延焼しているのを見て腰が抜けたことが昨日のことのように思い出された。
小学校をあとにして、広島城の堀(中学3年生の夏休みにお堀の掃除のアルバイトをして地元のテレビ局のニュースに出て、初めてのテレビ出演となったところ)を眺め、太田川沿いを、軽快に赤チャリを走らせ、心地よい風を頰に絡ませながら先を急いだ。
次に訪れたのは、高校球児のあこがれの地、甲子園を目指した崇徳(そうとく)高校の狭い校庭だった。
3年生の春から広島県大会や中国大会で初優勝し、夏の決勝戦まで練習試合を含めて無敗でありながら、大一番の決勝戦では名門広島商業に2対4で破れ、夢の甲子園出場を絶たれ、涙を飲んだ。
この時の広島商業は夏の甲子園で全国優勝を成し遂げる。
それから、高校時代の辛かった冬のトレーニングをした広島の西方にある三滝観音寺(みたきかんのんでら)に向かい、38年ぶりに三滝観音寺への急な坂道を登っていた。
その当時の激しかった練習風景が脳裏に蘇り、よく耐えた自分に心の中で拍手を送っていた。
とその時であった。
左手に何やら違った気配を感じ、目をやると、立て看板があり、その向こうには何百という小さな石塔があった。
立て看板には、
「ここは原爆のため 無縁となられた方々の お墓でございます どうかご参拝下さいませ 合掌」
と書かれていた。
私は直ちに参拝をすると、深く合掌した。
──こんなところに、こういった無縁の塚があるなんて、高校時代は全く気づかなかった。
広島は原爆の街。自分の意思とは全く関係なく自分の命を亡くしてしまった人たちが何十万人といたのだ。野球をしたくてもできなかった。自分の好きなことをやりたくてもできなかった多くの人々がいたという事実。今、自分が生きていて、野球ができる幸せを感じて、お前は女子硬式野球をしているのか。
と、自分のこころに問いかけていた。