【前回の記事を読む】神奈川県では、ある人の命日に「妊婦姿のおかめ」を中心に行列が練り歩く奇祭が行われる──無形文化財の「面掛行列」は…
その二 源頼義 ~由比若宮ほか~
頼朝が鎌倉に幕府を開くきっかけをつくった源氏の棟梁
源頼朝が幕府を鎌倉に開いた理由は、三方を山に囲まれ、一方が海に面する天然の要害だからというのがひとつ。他には最も有力な庇護者である三浦一族の領地の隣に位置していたというのも理由だろう。しかし、最大の理由は、かねてから鎌倉が源氏にとってゆかりの深い地であったからである。
東国における源氏の名声を確立し、多くの東国武士との間に関係を結び、六代あとの頼朝が武家の都として鎌倉に幕府を開くきっかけをつくった「鎌倉人」が源頼義(よりよし)である。
1.武門源氏の成立と坂東進出
鎌倉幕府を樹立した源氏は第56代清和天皇の流れをくむため清和源氏と呼ばれている。しかし生誕年齢その他から紐解くとこれには矛盾が多いとのことで、第57代陽成(ようぜい)天皇とその子元平(もとひら)親王の流れだとする説の方が有力なのだそうだ。しかし頼朝も清和源氏を名乗っているのでここではこれ以上深入りしない。
武門源氏の祖とされるのは頼義の曽祖父である源経基(つねもと)である。しかし、この経基については後に武家政権を樹立する部門第一の家系の祖としてはいささか情けない話が伝えられている。
938年(承平8年)2月、武蔵介として赴任していた経基は武蔵権守(ごんのかみ)興世王(おきよおう)と足立郡司武蔵(むさしの)武芝(たけしば)の紛争を調停した平将門が彼らと結託して自分を攻撃するものと誤解し、慌てふためいて上洛。翌939年(天慶2年)3月、将門が謀叛を起こそうとしていると太政官に密告した。
この密告が事実ではなかったため経基は左衛門府に拘禁されている。ところが、同年11月に将門は常陸の国府を攻撃して国家的反乱を引き起こしたため、密告が結果的に事実と認められ、その功により翌940年(天慶3年)、経基は従五位下に叙され、将門を討つための征東副将軍に任じられている。
しかし、将門は藤原秀郷(ひでさと)と平貞盛(さだもり)に打ちとられてしまい、経基の出番はなかった。また、経基は「藤原純友の乱」でも追捕凶賊使の次官に任命されて純友追討や残党の追補などにあたったとされているが、武門としてさしたる功績を遺すことなく961年(応和元年)に死去。武門源氏の流れは嫡男満仲(みつなか)に継承されていく。