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三島が亡くなった後、私は楯の会の一期生で仲が良かった平山芳信の誘いで、村松剛が主宰する勉強会に参加し、改めて三島の文学と行動、政治的発言の真意、天皇観などを教えられた。

もっとも楯の会の件は生涯、自分の中で封印しておこうと思っていた。三島の考えが十分理解できていないのに楯の会のことを書くなど大それた考えだと思ったし、最後まで楯の会会員として貢献できなかった後ろめたさもあった。新聞記者という仕事柄、取材先に変な先入観を持たれたくないという思いもあった。

それが変わったのは、ある中央官庁の官僚のひと言だった。酒を飲みながら何かの拍子に三島事件の話になった。その官僚は「三島由紀夫? ああ、東大(闘争)で亡くなった」と言った。

私がよほど変な顔をしたのだろう。「ああ、自衛隊でしたね」と訂正した。

事件からすでに三十年が経っていた。事件が風化しつつあると感じ、平山と楯の会の歴史を整理しておこうと話し合った。その平山も亡くなり、私ひとりで書くはめになった。

「三島由紀夫は死後も成長する作家」といわれる。自身の死後も読み継がれ、時代とともに意味を変え、成長する作家である。確かに死後、五十余年で千冊以上の三島関連本が発刊されたとも言われ、新たな事実は発掘しつくされた感がある。私には三島文学を語る力はない。

本書は、三島と楯の会で経験したこと、感じたことを記した私記である。第一部を楯の会設立の経緯、第二部は三島の考えてきたことを私なりに解釈して記した。

文中では昭和の年号と西暦を併用した。三島は大正十四(一九二五)年一月十四日生まれだが、この翌年の十二月に元号が昭和に変わったため、昭和の年号は三島の満年齢と一致する。三島が活動した時の年齢を明らかにするために、あえて昭和の年号も記した。

なお、本文中では敬称を略している。

第一章 その日の楯の会会員

市ヶ谷へ走る

三島事件のその日、阿部勉(楯の会一期生)はアパートの外階段をバタバタと駆け上がり、ドアを激しくノックする音で目が覚めた。「阿部さん、阿部さん、大変だよ」の声。

すでに起床していた同居人で楯の会三期生の福田俊作が、隣の部屋から顔を出し、訝しげにドアの方に目を向けた。


(1) パトリック・J・ブキャナン『病むアメリカ、滅びゆく西洋』(宮崎哲弥監訳、成甲書房)42頁

 

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