『影の残響』

 高橋玲奈がその影を初めて見たのは、引っ越して三日目の夜だった。

 家具のほとんどないワンルームには、まだ開けていない段ボールが壁際に積まれていた。衣類、食器、本、アルバム。箱の側面に自分で書いた文字を眺めても、それらが以前の部屋から運ばれてきたものだという実感は薄かった。前の部屋には六年住んでいたが、鍵を返した日のことを思い返すと、惜しさより先に、もう戻らなくていいという安堵だけが残っている。

 引っ越した理由を聞かれれば、会社に近いから、と答えていた。家賃も少し安かった。けれど本当は、前の部屋で眠れなくなっていた。深夜になると窓の外を確かめ、何もいないことを見てからでなければ照明を消せない。いつから始まった習慣なのかは思い出せず、そのことを不思議に思うより、思い出そうとしないほうが楽だと感じるようになっていた。

 新しい部屋にはまだカーテンがなかった。向かいの建物の窓、道路を照らす街灯、通り過ぎる車のヘッドライトがそのまま室内へ入り、床や壁に積まれた箱の影を伸ばしたり縮めたりしている。玲奈は床に座り、コンビニで買った夕食を食べながら、翌日こそ荷ほどきを終わらせようと考えていた。

 窓の外に人が立っていることに気づいたのは、空になった容器を片づけようと立ち上がったときだった。道路の向こう側、街灯から少し外れた場所に黒いものがあり、六階から見下ろしているため顔までは分からない。黒いコートを着た誰かが立っているだけなら、不自然なことではなかった。ところが眺めているうちに、その身体の輪郭だけが現実の比率からわずかに外れているように思えてきた。肩から垂れた両腕は膝より下まで伸び、首はかすかに傾いている。その姿勢を見ていると、自分が上から見下ろしているのではなく、向こうからこちらの部屋を覗き込まれているような感覚が生まれた。

 玲奈は窓から離れ、しばらくしてもう一度確かめたが、そこには何もいなかった。街灯と標識が重なって見えただけだろうと考えれば終わるはずの出来事なのに、その夜は照明を消してからも何度も窓を見た。何もいないことを確かめるたびに安心し、それから数分もすると、今度は見落としているだけなのではないかと思った。

 翌朝、窓ガラスには曇った指でなぞったような黒ずみが残っていた。人の輪郭に似ていたので濡らしたティッシュで拭うと簡単に消えたが、捨てようとしたティッシュには何の汚れも付いていない。窓を見れば黒い輪郭もなくなっていて、どちらを事実として扱えばいいのか分からないまま、玲奈はティッシュを丸めてゴミ箱へ落とした。

 会社では、昨夜のことを考える暇もないほど仕事に追われた。広告制作会社に勤めて五年になる。退社前、同僚の真紀に新居の写真を見せたときだけ、あの影が再び現在へ入り込んできた。

「窓、大きいね。夜、外から見えそう」

「カーテン、まだなんだ」

「この写真、引っ越した日?」

「そう」

 家具のない部屋と壁際の段ボール、カーテンのない窓。ガラスには写真を撮っている玲奈自身が薄く映り込んでいた。真紀が席へ戻ったあと、何となく窓の部分を拡大すると、自分の背後に黒い輪郭があった。さらに拡大すれば粗い粒子に崩れ、段ボールの影だと言われればそうも見える。ただ、写真を撮ったとき、その場所にあれほど背の高い箱を置いていなかったことだけは覚えていた。

 帰宅後、玲奈は同じ位置に立って窓を確かめ、段ボールをいくつか動かしてみたが、どの配置にしても写真と同じ輪郭は生まれなかった。同じ場所から新しく撮った写真には自分しか映っていない。その違いに意味を与えるより前に、玲奈は自分が写真の中の影よりも、「一枚目にはあって二枚目にはない」という事実を何度も確かめていることに気づいた。

 その夜から、影そのものより、その動きの遅れが玲奈を捉え始めた。冷蔵庫の扉を開けたとき、庫内灯によって床へ落ちた自分の影の隣に、もう一つ影があった。玲奈が右手を上げれば自分の影も上がり、隣の影だけがわずかに遅れて同じ動作をする。手を下ろせば、それも少し遅れて下りた。玲奈が動きを止め、そのまま待っていると、今度は隣の影だけがゆっくり右手を上げたので、反射的に扉を閉めた。しばらくして再び開くと、自分の影しか残っていなかった。

 それから玲奈は、洗面所の鏡や駅のホーム、電車の窓にまで同じ種類のずれを感じるようになった。鏡の中の自分が一瞬だけ遅れて動いたように見え、背後の足音が半歩遅れてついてくる。スマートフォンには押した覚えのない語が現れ、それが直前まで頭の中で考えていた言葉だったこともあった。どれも単独なら疲労や錯覚で説明できる。しかし異なる場所で、異なる感覚を通じて、同じ「遅れ」だけが繰り返されるようになると、むしろ偶然と呼ぶことのほうが不自然に思えてきた。

 数日後、母から電話がかかってきた。片づけは進んだか、食事はしているかといういつもの会話の最後に、母が何気なく尋ねた。

「小学校のころ、海で撮った写真も持っていったの?」

「どこの海だっけ」

 電話の向こうで母が黙り、やがて「玲奈、覚えてないの?」と聞いた。その沈黙は短かったはずなのに、不自然に長く感じられた。

「何を?」

「……いい。今度話す」

 母はそれ以上話そうとせず、疲れているのだろうから早く寝なさいと言って電話を切った。

 

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