【前回の記事を読む】1962年、1か月分の計算に40分かかるコンピュータで10年分を計算…4か月間、大学トップの使用時間になってしまい、結果は九州電力へ…

源馬宏一郎の職業人生

第1章:駆け出しの頃

1963年4月に、北辰電機製作所に入社しました。この会社は計測器メーカーで、工場のオートメーション計器が主力製品です。小生は、制御用コンピュータに興味があり、ハードウェアを自社開発した北辰に決めました。

最初の配属は研究所計算制御課でした。この課では、CC6201と呼ばれる語長が24ビットのパラレル・コンピュータの開発が丁度佳境に入っていて、大変多忙な時期を迎えていました。

新人の小生など、何も手伝えない邪魔者です。北脇さんという京都大学大学院卒の方が、小生の教育係に付きました。北脇さんは、論理設計のチーフでした。

50枚ほどのA2サイズの論理回路図を渡され、朝9時から午後5時まで、一日中論理図を眺め、どの論理ブロックが、他の論理ブロックとどのように結び付いて、どう機能するのかを考える毎日でした。

北脇さんは、午後5時から15分だけ時間を割いてくれて、小生は、その日の考察結果を報告します。北脇さんは、小生の理解が間違いか、正解かだけ言います。稀に、ヒントをくれる事もありました。

6か月掛けて、漸く全体が理解出来ました。このスパルタ教育が、小生の一生の職業上のベースになりました。

コンピュータという物の本質が理解でき、またコンピュータ・アーキテクチャがどんなに、コンピュータの性能を支配するのか、新しいアーキテクチャを新規に創造する事が、いかに魅力的な仕事かを教えられました。

その後、小生はタイプライタの制御回路の設計を担当しました。簡単な仕事です。

ハードウェアは、東京工業大学大学院卒の吉井さんがチーフでした。小生は彼の下で、試作機のハードウェアの調整を補助しました。約1か月間、会社に泊まり込みました。

朝6時半に起床し、社員食堂で朝飯を食べ、すぐ調整作業に入ります。昼飯と晩飯も社員食堂で済ませました。

これではあまりに惨めな食生活なので、毎週日曜だけは、近所のすし屋に繰り出して、たらふく食べました。夜11時に作業をやめて、当時発売されたばかりのインスタント・ラーメンを食べて寝ました。

この月の残業時間は、なんと200時間になりました。深夜残業もあり、この月の残業代は本来の給与の1・3倍で、あわせて本給の2・3倍になりました。

この年の大阪で行われた計測展に、試作機を出展しました。大阪へは、この年開通したばかりの東海道新幹線で行きました。同行しなかった連中にずいぶんと羨ましがられました。

鉄橋やトンネルや高架橋の部分の揺れは少なかったのですが、大部分を占める盛土の部分は、まだ土が安定していないため、かなりの揺れで、並んでいる座席の通路側の取っ手を伝い歩きしました。ただ、展示会場が寒かったのでした。

π(パイ:円周率)の1000桁の計算を展示したのです。これにより、当時日本一の高速演算である事を実演したのです。

ところが、寒さのせいか100桁位で誤動作しました。そこで、前に正確に計算した時の数列をただ印字するだけのプログラムを走らせて、誤魔化しました。

後で調べたら24ビットの並列加算(24ビット分を一度に加算)する時、一番下の桁から一番上の桁の更にもう1ビット上の桁に桁上げがあった場合に、誤計算することがわかりました。

例えば、図示の例では、加算すると最下位桁から加算により桁上げ(キャリイ)が上がり、順次桁上げが上位桁に伝搬し、最後は存在しない25ビット目に、桁上げが生まれます。オーバーフローと呼びます。

図示の例

プロセッサのステータス・レジスタの中の1ビットのオーバー・フロー・フラグというのが設けられていて、25ビット目に桁上げがあると、これが1になる事で、この桁上げが生じた事が判別出来ます。

また、事前にプログラムで設定しておけば、この桁上げが発生したら、あらかじめ用意した割り込みが発生し、対処プログラム先頭からの処理プログラムの実行に移らせる事が出来ます。