佳織はそう言うと、持っていた旅行カバンを床に置き、へたり込むように腰を下ろした。
「あなた、疲れているんじゃない?」
まち子は娘の横に腰を下ろした。佳織は小柄なまち子と比べると十センチほど長身だが、座ると同じくらいの目線になる。
「そんなことないわ。ただなんとなく、お母さんの顔を見たくなっただけ」
「あら、ずいぶん殊勝なこと」
「お土産買ってきたわ」
そう言って佳織はカバンから包みを取り出した。日本橋にある百貨店の包装紙だった。
「あら、いつものフルーツケーキね。こんなにたくさん、重かったでしょう」
世間一般の女子のようには甘いものが好きではないまち子だが、洋酒のたっぷりと染みこんだフルーツケーキだけは好物だった。濃密な味が口の中に溶けて広がっていくときの、鼻の奥に詰まるような感覚が好きだった。
時計を見ると、のんびりしていられない時間になっていた。
「もう行くわ。帰りは九時くらいになると思うけれど、料理を分けてもらってくるから、一緒に夕飯食べましょう。それまで待てる?」
「わかった、少し眠っているわ」
まち子は手際よく身支度をすると、部屋を出ようとしてから、足をとめた。
「そうそう」
振り返ると、佳織は畳の間で横になろうとしていた。
「部屋の中、あちこち漁ったりしないでよね」
「わかってるわよ」
佳織はそう言うと、ぺろりと舌を出した。
2
その日は団体客が入っていたので、仁明亭は賑わっていた。三十名ほどの団体で、この温泉街の近くにある電機メーカーの工場関係者たちが泊まりの宴会だった。最近ではすっかり少なくなったが、昔はこういう宿泊宴会が多かった。
夕食会場は大広間だった。まとめて配膳できるので、部屋食よりも楽だった。他の仲居たちと手分けをして膳を運び、酒を注いで回った。
決められているわけではないが、客にお酌をすることもある。こういったホステスまがいのことも、仲居の仕事だった。
あの人と出会ったのは、とまち子は思った。こういう宴会のときだった。あれから、二十六年になる。
宴会が引けて片付けを終えると、厨房に寄って食材の残りを分けてもらった。まち子は、二、三品でも分けてくれればよいと言ったが、娘が帰っていると話すと料理長が気を遣ってくれた。二段の重箱には、その日の料理が色鮮やかに詰め込まれていた。
仁明亭を出ると、夜の空に靄があった。
四月とはいえ、山の空気は、はっとするほど冷たい。この透徹した感じが、まち子は嫌いではない。すっと背筋が伸ばされるような厳しさがあった。風があり、山頂から流れ込むように降りてくる。そこには、絶え間のない流れがあり、それを肌が敏感に感じとっていた。
石段の中ほどまで来たところで、まち子は立ち止まった。山々の稜線が高みへと続いている。暗くておぼろげにしか見えないが、黒い空に橙色の外灯の光がぼんやりと拡散し、どこか心もとなかった。
木の匂いがした。仁明亭のすぐ裏手には、ブナの森が迫っている。木の匂いは、そこからだった。まち子は目を凝らした。うっそうとした暗がりから、雉の声がした。
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