第4話「だんだん落ちていく」
高校生になりました。かわいい制服を着て、がんばらないという気持ちが出ては来たものの勉強が全く付いて行けずにいつも補習ばかりでした。
バイトの許可がもらえなかったし、入りたいと思ったクラブはお金がかかりました。私はこっそりバイトもして、自分のおこづかいは自分で稼ぎました。みつからないように調理場で働きました。
私は皆の楽しみである修学旅行に行きました。バスの席を決めたりしました。誰がどこに座るのかでとにかくもめましたが交代して座ろうという事で何とかまとまりました。
修学旅行が始まると、私も楽しい気分になりました。船に乗って具合いが悪くなる子がいたので本当はお風呂に入ってみたかったけど、一人入れないのはとてもかわいそうだからと何人かはお風呂をがまんしましたので私もお風呂をがまんしました。でも船の中からイルカを見たりして楽しく過ごしました。
旅行先でのバス行動が始まると、とても残念な事がありました。一人の子が座席を交代するのを嫌がってきたのです。本当に小学生の様なわがままで、その子は座席を交代しようとはしませんでした。
私は本当に頭にきて自由行動を一緒にする予定だったのですが「私もうこの子と自由行動なんてできないから」と言って別の子達のグループに入れてもらい完全無視しました。わがままな子なの。皆で決めた事なのに本当に腹が立つ。でも別の子達と楽しく過ごせて良かった。
私はかぜを引いてしまって具合いが悪く熱も出てきて早く寝たかったです。しかし、他の子達はおかまいなしで大さわぎ。私もせっかくの旅行なのによけいな事も言いたくなく、ふとんに入っていました。
朝になって目を覚ますと生理になっていてシーツにも血が。私はシーツを洗面台で洗いながら思いました。「本当に最悪ふんだりけったりとはこういう事やな」と裏切り者はいるは、かぜは引くは、おまけに生理。
なんてついていないのか、自分の運の悪さを恨んでいました。そんな私にさらなる出来事が待っていました。それは帰りの飛行機での事です。さくらは窓から2番目のなかなかのいい席でした。
すると嫌な子がやってきて席を代わってと言ってきました。その子の仲良しが窓の席に座っていたのです。私はここで嫌だというのも感じが悪いと思い、席を代わってあげました。
そして私が嫌な子の席に座ると水がこぼれていてビショビショでした。わざとやったのかどうかは分かりませんが、私は体調も悪く、熱もあるのかぼーとして、怒る気力もありませんでした。
毎日をただただ生きて一日が早く終わればいいと思い過ごしていたこの頃の私には、CAさんに言って別の席があいているか聞く事はありません。元の席に代わってと言う事もありませんでした。
おまけに耳も痛くなってきました。体調の良くないまま毎年恒例の保育実習がありました。
私の順番がすぐに回ってきたのですが、子供達と遊んだりする事ができずに、何もできないうちに一日が過ぎ去ってしまいました。私にとって大事な高校生活の良き思い出となるはずの修学旅行も保育実習も最悪な思い出となってしまいました。
またつまらない毎日が始まりました。毎日バイトしていたかったけど、学校があるから土日だけ。バイトしている時はとても楽しかった。
そんな時、私にとって大切なおばあちゃんが、子宮がんにかかって亡くなってしまいました。もうだいちのめんどうもみてはもらえません。
私が今まで以上にだいちの事もみてあげないと、母は何もしないので忙しくなりました。母は私に19才の厄年に着る着物の準備だとか言って忙しくしていました。
イベントにははり切って行動するのです。喪服を買うと振り袖を何度でもレンタルできるそうです。私は何も知らないけれど母に連れていかれて着物を選びました。
19才の厄に私の大好きなおじいちゃんの実家で振り袖を着て写真を撮ってもらいました。私が学校から帰るとおじいちゃんのカブがいつものように止めてある。
でも何かがおかしいのです。どこを探してもおじいちゃんがいません。今の様にケータイにすぐ電話してという事もできないので待っているしかありません。
母が帰って来たので話しを聞くと、おじいちゃんは車との事故にあったという事で、市内の病院に入院する事になりました。しばらくは市内の病院にいたのですが、回復の見込みがないという事でずいぶん遠い病院へ移される事になりました。
何度かお見舞いに行きましたがおじいちゃんは何度呼びかけても全く反応が無い。手も包帯でぐるぐるまかれていて、本当にいきているのかなあと思うくらいでした。おじいちゃんと同じ部屋には同じ様にベッドで寝ている人が何人かいましたが皆おじいちゃんと同じ様な様子で、何もしてあげる事ができずに私は胸を痛めていました。
私も進路を決める時がやってきました。すぐにでも働いてお金を稼がないといけないと考えました。でもどうしても家を出たかった。だいちももう一人で家におれるし、私がいなかったら母も家の事もやるやろうと考えました。
私はパティシエになりたかったので、まずは当時有名だった大阪にある専門学校へ通いながら自分で働いて稼いで、勉強もして、今度こそ自由に生きてみたいと思いました。
それを母に言ってみました。母の答えはこうでした。