一章 彼女が座っていた右隣の椅子

本厚木駅北口を出ると、ロータリーを囲むビル群が目に入った。吐く息は白く、足元の舗道は日陰だけが冷えきっている。

一階に銀行が入っている商業ビルの壁面にあるはずの「あつぎビジョン」と呼ばれるプラズマ大画面が、いつの間にか姿を消していた。

冬の弱い日差しを受けた壁面は、その部分だけ色が浮き、いつ撤去されたのか分からないまま、冷たい空気の中にさらされている。

妻の沙緒里と、五歳になったばかりの娘の雪菜と一緒に、この街を初めて訪れた日のことが思い出された。

大画面に映し出されていた宮ヶ瀬ダムの雄大な景色や、飯山の美しい自然を眺めながら、「素敵な場所があるのね」と沙緒里は言い、「お父さん、あそこに行きたいね」と雪菜は無邪気に続けた。あのときの光景が鮮明に蘇ってくる。

しかし、薄汚れた壁の元の白さを保ったまま残されている大画面の痕跡を見つめたとき、確実に戻ってこない生活があることを、高村幸介ははっきりと実感した。

妻子がいた頃、この街の低い空は、今ほどくすんではいなかったはずだ。もっと活気があり、人々の顔も輝いていたように思う。だが、高村の目に映る風景は、もはや以前のそれではなかった。

駅前通りを抜け、キャバクラの呼び込みがうるさい路地に入った。しばらく歩くと、コンビニが見えてくる。

自動ドアが開くと酒コーナーへまっすぐ向かい、ハイボールのロング缶を二つ右手に取った。冷えた感触が指先に伝わる。弁当売り場では海苔弁当を一つ選んだ。レジに立っていたのは、ネパールから来て働いているクリシュナだ。

「いつも、ありがとうございます」と癖のない日本語で礼を言い、穏やかに微笑む。その言葉と笑顔だけが、今の高村に注がれる、わずかな温かさだった。

築三十年を超えたマンションの階段を、コンビニ袋を提げて上がり、二階の一番奥の部屋のドアを開けた。

台所のテーブルにはウイスキーの空き瓶が数本置いてあり、床にはビールやハイボールの空き缶が膨れるほど詰め込まれたビニール袋が二つ置かれている。狭いリビングには昼間の雨が運んだ湿気と埃の匂いが残っていた。

スチール製の本棚に専門書はほとんど無く、擦り切れた小説と季節遅れの雑誌が置かれている。その隙間を埋めるように、高級ウイスキーのボトルが三本、無言で並んでいる。場違いなボトルの艶だけが、部屋の乾いた空気に沈まずに残っていた。窓際には安っぽい簡易ベッド、その横にはパソコンデスクが置いてあったが、電源を入れたのは一度きりだった。

狭い部屋に、似つかわしくない六十五インチのテレビと、一人がけのソファ、その前には安っぽいガラステーブルが置かれている。いずれもネット通販で買い、搬入したものだ。

高村の楽しみといえば、ウイスキーを飲みながら古い映画を見ることと、動画配信で八〇年代の洋楽を流すことだけだった。あとは、情報番組とニュースを時々見る。

それが、この部屋で過ごす時間の全てだった。