第一章 紅顔の野球少年
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「遅いのう、まだかのう」
さかのぼること六〇年前の昭和三九年八月二八日。中島の父孝志は今か今かとじりじりしていた。富山県富山市の産婦人科。その待合室。孝志は待望の我が子が生まれてくるのをじっと待っていた。孝志の妻麻衣子が産気づき、分娩室に入って、すでに一時間以上経過していた。
「まだか、まだか」
一緒に立ち会っている義母の綾乃と顔を見合わせては出産の時を心待ちにしていた。だが、なかなか産声が聞こえてこない。難産もいいところだった。孝志は日頃口にしない煙草を吸いたい気分だった。
中島家は代々富山県中新川郡立山町に居を構えた教育一家だった。孝志も、その父信雄もまた学校の教員であった。信雄が未だ健在で、孝志も当時富山市内の高校で教鞭をとっていたこともあり、富山市内の賃貸アパートに居を構えていた。
男の子と聞いていた。中島家の親類縁者の中で、まだ赤子を産んだ者がいなかっただけに、待望の存在であるといえた。旧家の跡継ぎになるわけである。その誕生を今や遅しと待ちわびていた。
名前はもう決めてあった。野球好きの孝志は日本プロ野球界を席巻するスーパースターの名前にあやかろうと思っていた。
分娩室のドアが開いた。産声はまだ上がっていない。中から、産婦人科医が出てきた。四〇代の中年男性である。なんでも担当医が今日急遽大阪に出張となり、代理で出産に立ち会うことになったらしい。東京の医大の教授という話だ。
「ちょっと来て下さい」
孝志は呼ばれ、男性医師について別室に入った。何事か、と思った。
「お産が難航しているのは、実は奥さんのへその緒が短くて、自然分娩できない状態にあります」
医師は冷静に言った。
「それで、妻と赤ん坊は……」
孝志は訊き返した。
「つきましては帝王切開を致しますので、任意同意書に署名して欲しい」
そういうことか。
「わかりました」
孝志は合点した。妻が無事に出産できるのであれば、何でもいい。
孝志は用意された書類にサインした。医師はそれを確認すると、再び分娩室に向かった。ほどなくして、麻衣子が横たわっている移動式ベッドが分娩室から手術室に運ばれた。その姿を見た時、自然分娩できない娘を不憫に思ったのか、綾乃が涙ぐんだ。
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