「ねえ、あれ、聞いた?」
楊金英(ヤンジンイン)は、真顔にもどって、田閔(ティエンミン)をかえりみた。わらうと愛嬌たっぷりだが、笑みが消えると、きりっとした、端整な顔立ちである。さすがは、宮中をいろどる佳麗のひとりというべきか。
「なんの話だ?」
私が訊くと、田閔(ティエンミン)が、こたえた。
「張(チャン)皇后さまが、皇上から遠ざけられ、位をおろされたのだ」
蠟細工のように白い横顔―私がはじめて見た、ほんものの淑女のすがたが、脳裡に浮かんだ。
「……どうして、また」
「大きな声では言えないが……皇上に従わず、敬わず、皇上から傲岸不遜をなじられても、反省の色もみせなかったそうだ。やむなく、皇上は、張(チャン)皇后を、皇后の地位からおろされ、別宮(べつぐう)に蟄居(ちっきょ)を命じられた」
「……それなら、皇后は、空位になったのか?」
「ちがう。新皇后には、方徳(ファン)妃がのぼられて、即位された。方徳(ファン)妃も、宮中にはいられたのは嘉靖九年、妃嬪のなかでは、長いお仕えだ」
嘉靖帝は、苛烈で、非寛容なご性格なのであろうか。
あるいは、田閔(ティエンミン)が言うように、張(チャン)皇后は、どうにも御しがたい、はねっ返りであったのか。それとも、お二人の星まわりが、相剋(そうこく)をおこしたのか。
いずれにしても、皇帝は、天命を一身に受け継ぐものであると、私は信じていた。えらばれしお方なのであるから、庶民には、けっして、理解できない事情がおありであろう。
しかし、皇帝とは、たみぐさに、仁と規範を垂れるものではないか。色魔の野合ではあるまいし、そんなにかんたんに、娶(めと)った女性(にょしょう)と離別してよいものか。
「ねえン」
楊金英(ヤンジンイン)が、ひじで田閔(ティエンミン)の横腹をつついた。
「なんだ」
「なんだか、おなかいっぱいになっちゃった。そっちから、半分たべてくれない?」
「それみろ。だから、無理するなって」
口から出した科白(セリフ)とはうらはらに、どんぶりの反対側から、田閔(ティエンミン)が箸をさし入れた。まんざらでもなさそうである。
「えへへ」
楊金英(ヤンジンイン)が、照れわらいをする田閔(ティエンミン)を見て、いたずらっぽく笑った。
こっちは、二人を横目でちらちらと見る以外に、なにもすることがない。