宮前の御霊神社は川名の御霊神社から北東方向に20分程歩いたところにある。鬱蒼とした森に囲まれ、ここだけ何か異空間の様な静かな場所だ。石碑には、「御祭神 崇道天皇(光仁天皇第二皇子早良親王)、権五郎景正、葛原親王、高見王、高望王」。

由緒沿革として、「御祭神崇道天皇は桓武天皇が御宇延暦十三年五月現在の京都市に御霊宮として祀り給い其の後この村岡に五郎良文が住し天慶三年に勧請し戦勝祈願をなしたるを始めとす。のち鎌倉権五郎景正を合せ祀り二柱たりしが北条時頼の命により葛原親王、高見王、高望王の三柱を加え県下に十三の分社あり。その後村岡五ケ村総鎮守として現在に至っている」と記してある。

どうもこのあたりの御霊神社の親分格はここのようだ。ここも長い石段を登ると社殿があるが、社殿の手前には「疱瘡(ほうそう)神」が祀られている。疱瘡(=天然痘)は、古くから多くの死者がでるもっとも恐ろしい厄病とされていたようで、石塔を建てて祀り、これを拝むことで疱瘡の苦しみを少しでも軽くしてもらおうとしたものと思われる。

この「疱瘡神」は鎌倉古道の道沿いで八幡山という山のふもとにあったものを、鎌倉権五郎景正が、皆が拝みやすいように御霊神社の境内に移したものと伝えられている。こんなに大きな石塔を移すにあたっては手玉石・袂石に示された怪力が発揮されたのだろうか。領民を慈しみ、領民とともに生きた景正の姿が偲ばれる素敵なエピソードだ。

梶原の御霊神社は、宮前の御霊神社から鎌倉方面に歩いて20分ほどの所にある。このあたりは鎌倉市深沢という地で、梶原の御霊神社は鎌倉市立深沢小学校の隣にある。

神社の石碑には、「御祭神は鎌倉権五郎景正霊。由緒として御祭神景正は後冷泉天皇の御宇永承壬辰年(1045年頃)命を奉じて、源頼義と奥州に下向し安部貞任、宗任と合戦大勝して帰る。天喜元年(1052年)時の人始めて鎌倉権五郎景正に御霊大権現の神号を奉り村岡邑に奉斎せり。後年鎌倉権太夫景通梶原の邑に居を定め屋号を梶原と改む、建久元年(1190年)九月梶原平蔵景時一宇を建て、景正の霊を祀り御霊社と称す」と記されている。

ここで、はてと考える。景正が奥州に出向いて戦ったのは源頼義ではなく義家に従った「後三年の役」のはずである。記述に矛盾を感じないではないがそれはそれ、気にしないで石段を登っていくと中段に舞台の様な社殿がある。能や雅楽などが演じられていたのだろうか。更に急な階段をまっすぐ登っていったところに拝殿がある。ここから南に向かう眺めもまた実にいい。

今日は土曜日のため小学校はお休みだが、校庭では少年野球の子供たちが盛んに声をあげて守備練習をしている。今も鎌倉権五郎景正はこの地の人々のすぐそばに寄り添っている。きっとこの野球小僧たちのことも空のかなたから見守って、励ましの声をかけてくれているに違いない。

 

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