高畑が表沙汰にしなかった理由はシンプルだ。あの男には失うものがあった。妻と、子供と、家と、役職と、業界での信用。20年かけて積み上げたものが、1本の音声ファイルで崩壊する可能性があった。私には何があったというのか。

こんなに軽い人間の方が、こんなに重いものを持った人間に勝てる。ジャイアントキリングもいいところだ。

それが世界の設計だ。

おかしいと思うなら、ルールを変えればいい。変えられないなら、ルールを使えばいい。私は後者を選んだ。それだけだ。どこかで習った技術じゃない。中学の教室で、独学した。6年かけて磨いた。技術は文脈を選ばない。使える場所で使う。

合格通知をスクリーンショットして、クラウドに保存した。高畑への録音データの隣のフォルダに。整理整頓は大事だ。どんなに乱暴な生き方をしていても、ファイルの管理だけは丁寧にしている。これも一種のこだわりだと思っている。こだわりが消えたら、たぶん、いろいろ終わる。

本棚の前に立った。

今夜は何を読もうか。設計された私じゃない私が、そう思った。そういう私がまだいることが、たまに、少しだけ、安心する。安心するという感情が残っていることも、まあ、悪くないと思っている。たぶん。

9.友だちを殺してまで

芸能事務所への所属が決まった。

それ以上でも以下でもない。

合格通知をスクリーンショットしてクラウドに放り込んで、その夜は普通に本を読んで寝た。人生の転機というものは案外地味なのかもしれない。

ドラマや小説ではもっと劇的に描かれるが、実際の人生の節目なんてものは、要するに1つのフォルダが別のフォルダに移動するだけの話だ。

別に盛大な花火も打ち上がらないし、感動的なBGMも流れないし、親友が泣きながら祝福してくれることもない。そもそも親友がいない。いきなり0から100へとはならない。じわじわとゲージが上がっていくようなもので、あの夜は決定打を放っただけなのだ。

ただ現実というのは、ここからだった。

最初の半年間にねじ込んでもらえた仕事というのが、再現VTRのモブと準キー局の深夜番組のひな壇の端っこだった。

再現VTRのモブというのは文字通りモブで、台詞がない。

私が初めてカメラに抜かれたのは靴だった。しゃんとした靴を履いておいてよかったと思う。いいエピソードトークのネタができた。それだけ。

次回更新は8月13日(木)、16時の予定です。

 

👉『who am I』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】あの時と同じ露天風呂…でもあの時よりもずっと深く、愛しあった。「もう1回だけ」と囁かれ、湯けむりのなか重なりあって…

【注目記事】「三人でシよう」彼が同僚を連れてきて言った。私はただの遊びの女で、愛し合っていると思っていたのは私の錯覚だった…

 

ゴールドライフオンラインは、表現者を応援するウェブメディアです。
生身の人間が紡ぐリアルな言葉だからこそ、読者の心を揺さぶる力があると確信しています。
あなたも、"表現者"になってみませんか?
ゴールドライフオンライン編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp