【前回の記事を読む】詳細は書けないが警察沙汰になりかけた。母の表情は憎悪、愛情、恐怖が混ざっていて、もはや人間の顔ではなく……

5.エピソード

私が促されるまま席に着くと、岩塚玲子が言った。

「少し、席を外してもらえますか?」

周囲のスタッフに向けた言葉だった。声のトーンは変わらなかった。穏やかで、一定で、でも有無を言わせない何かがあった。

ほどなくしてスタッフが出ていった。ドアが閉まった。

メイク室に岩塚玲子と私だけが残った。

特に何も変わらない、と私は思った。スタッフがいてもいなくても、私のやることは同じだ。椅子に座って、鏡を見て、顔を預ける。それだけだ。

ブラシを持つと、鏡の中の私の目を見た。

「1つ、確認してもいいですか?」

確認、という言葉を選んだことが、少し引っかかった。

質問でもなく、確認。

「どうぞ」と私は言った。

「私のこと、覚えていますか?」

その言葉の意味を処理した。

覚えているか。業界で会ったことがあるか、という意味か。でもそれなら普通は「前にお会いしましたっけ?」という聞き方をする。覚えているか、という聞き方は違う。もっと具体的な文脈を前提にしている。

「すみません、どちらで?」と私は言った。完璧に自然な声で。

岩塚玲子は少し間を置いた。

「T高校です」

T高校。

その2文字が鏡の中に浮かんだ。

私の高校だ。

本山優子という災害の後、入学した学校。

スクールカーストを設計し直して、成績を維持して、指定校推薦で大学に進んだ、あの3年間。

「T高校の」と私は繰り返した。

「同じクラスでした。1年の時と、2年の時」

私はもう一度、彼女の顔を鏡の中で見た。

今度は時間をかけて見た。

切れ長でも、印象的でもない目。平均的な鼻梁。薄い唇。どこにでもある顔だ。悪い意味ではなく、記号として残りにくい顔だ。私のリサーチ対象として選ばれなかった顔だ。

記憶の引き出しを開けた。

T高校の1年のクラスメイト。2年のクラスメイト。顔、名前、ポジション、弱み。当時精密に収集したデータが残っているはずだった。

出てこなかった。

岩塚、という名前も、この顔も、私のデータベースにはなかった。

「申し訳ないんですが」と私は言った。

「覚えていないですよね」と岩塚玲子は言った。

責める声ではなかった。確認の声だった。

最初から知っていて、確認のために聞いた声だった。

「ええ」と私は言った。

嘘をつく理由がなかった。覚えていないものは覚えていない。それを認めることへの羞恥心も、今の私には特にない。

「そうだと思いました」と岩塚玲子は言って、ブラシを動かし始めた。